20210110 神のみことばに生きる マタイ15:1~9

◆食事前の手洗い・・・主イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わないことを、パリサイ人や律法学者たちが咎めました。これは衛生的な問題ということではなく、信仰的な行為として大切にされました。「異邦人、取税人や罪人」と見なされる者と関わったその手で、食物に触れることを嫌ったパリサイ人達は、食事前の手洗いについても細かな規定を設けて、神との聖い関わりを守ろうとしたのです。

◆主イエスの反論・・・パリサイ人と律法学者は、わざわざエルサレムから来たと1節にあります。恐らくそれは、主イエス訴える口実を探すための来訪であったと思われます。「なぜ食事前の手洗いをしないのか」(2)という問いも、主を貶めるためのものであったのでしょう。これに対して主イエスは、大変厳しい言葉で 反論をされますが、その要点は「神のことばを無にしている」(6)ということでした。

◆神と人を隔てるもの・・・パリサイ人派の人々は、神との聖い関わりを守るために一生懸命に努めました。「食事前の手洗い」も、そうした動機から生まれた規定であり、決して間違った動機ではありません。しかし、主イエスの反論を聞く限り、やはり何かが間違っているのです。その間違いについて主は、イザヤ書29章の言葉を引用しながら「心が神から離れている」と指摘するのです。聖書の文字を追いながら、彼らは神の心を受けとることを忘れていたのです。

◆自分たちの言い伝えで・・・過ちの要因は「自分たちの言い伝え」へのこだわりでした。そこで主は、「父母を敬え」という十戒の第五戒の扱いを例にあげて、彼らの間違いを指摘します。この戒めは親の扶養を意味するものですが、「言い伝え」によれば、扶養のための財産や物について、「神への献げ物になった」と宣言すれば、その責任が免除されたと伝えられてます。そう教える律法学者が悪いのか、それとも人々が悪いのか・・・、根本的な問題は人々の心に愛がないこと、そして、それは心が神から離れているからなのです。

◆神の愛が分かったから・・・Ⅰヨハネ3:15には「兄弟を憎む者はみな、人殺しです」とあります。今日の箇所で主イエスが言われる「父や母をののしる者は死刑に処せられる」という言葉に通じるものがあります。大変厳しい神の御言葉の前に、私たちは途方に暮れる思いがしますが、それは決して無意味な戸惑いではありません。何故ならば、ここに神の心が明らかにされているからです。Ⅰヨハネ3:15の聖句は、次のような御言葉が続きます。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです」(16)。

主イエスはご自身の愛を知らせようと、私たちを招いておられるのです。    主イエスの思いに気づくならば、いつでも聖書を読みなおし、神の心を受けとり直すことが出来るはずです。何故ならば「神は愛」だからです。

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