20210103 起きよ。光を放て。イザヤ書60:1~3

◆闇が地を覆う時代・・・イザヤ書の中でもよく知られた御言葉の1つですが、2節に「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている」とあるように、闇のような時代の中でこの御言葉は語られました。人々を覆う闇とは何なのでしょうか。この御言葉は、58章からの流れの中で語られているのですが、その中には、イスラエルの内にあった暗やみを垣間見ることが出来ます。

◆偽善の断食(58章)・・・58章10節を見ると、「飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。」と記されています。60章1節はこれを受けて語られたものと言えます。この3節以降で人々は、「断食」という信仰的な行為をあげて「なぜ祈りが聞かれないのか」と訴えていますが、主はこれに対して「断食をしていると言いながら、自分の好きなことをしているではないか」と言うのです。6節以降には「主が好む断食」として、数々の愛の行為があげられていますが、言い換えれば、これらの行為が人々の間で、蔑ろにされていたと読むことが出来るのです。

◆神と人を隔てるもの(59章)・・・ですからイザヤは、続く59章の冒頭で「神があなた方を救えないのではなく、あなたがたの罪咎が神との仕切りとなっている」と人々を責めるのです。「断食だ、安息日だ」と言いながら、その実は、神に背いて自分本意に生きている人々の偽善。あるいは、隣人に対して自分の力を行使して争う人々の生き方。それが神とあなたの間の壁となり、結局は自分で自分の人生を暗くしているとイザヤは言うのです。

◆贖い主の光のもとで・・・人々の偽善的な在り方を責めながらも、イザヤは59章20節で「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る」と言います。暗やみの原因が自分にあることに気づき、主の御前に心から悔い改める者のところに、主は罪を贖う者として来られるというのです。この「贖い主」とはイエス・キリストを指すものです。そもそも贖いという言葉の意味は「買い取る」というものであり、神は私たちを罪から解放するために、御子イエスを送り十字架で死なせられました。主イエスが私たちの罪の報いを「肩代わり」してくださったのです。このキリストの光に照らされて「起きよ。光を放て」と主は私たちに語られているのです。

◆キリストの光に照らされて・・・そのように、人がキリストの光に照らされて生きるとき、その光は「国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む」(3)とあるように、その周囲をも照らすことになります。主イエスは、ご自身の弟子たちに、「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません」と言われました。使徒パウロも「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい」と勧めています。新たな年もキリストの光に照らされて歩む教会であり、お互いでありたいと願います。

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