20201227 御前に生きるのだ ホセア書6:1-3

◆預言者ホセアの時代・・・北イスラエル第14代の王ヤロブアムは、近隣諸国との交易を盛んに行い、経済的な繁栄をもたらしますが、そうした中で持ち込まれた異教の偶像は、人々に不信仰と堕落をもたらしました。代表的な偶像であるバアルは、豊作をもたらす神として、またアシュタロテは、家畜に多産をもたらす神として崇拝されました。また、これらを祀る神殿には「神殿娼婦」と呼ばれる者がおり、こうした者と関わりを持つことで、人々は神々の祝福を得ようとしたと言われます。このような時代にあって、ホセアは神の裁きと回復を告げる預言者として立てられました。

◆主は私たちを引き裂いたが・・・6章1節をみると「主は私たちを引き裂いたが」と語られています。イスラエルの不信仰と堕落に対して神は1つの裁きを送られます。それがアッシリヤという国でした。急速に勢力を増すアッシリヤに対して、イスラエルは近隣諸国の国々と同盟を結んで対抗しようとしますが、南ユダはこれを拒み、あろうことかアッシリヤに助けを求めます。これを機と見たアッシリアは、シリヤを滅ぼしイスラエルにも侵攻します。この結果、イスラエルは国土の三分の二を失うことになったのです。

◆形式的な悔い改め・・・このような国難のもとで語られた1~3節の言葉ですが、実は二通りの読み方があると言われます。「私たち」という言葉が繰り返されていますが、1つはこれをイスラエルの人々の言葉とする読み方です。「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる」と、彼らは安易で自己本位な悔い改めを語るのです。もう1つは「私たち」という言葉をホセアの言葉とする読み方です。ホセアは「主を知ること」を求めますが、それはイスラエルにとって、律法の言葉として幼い頃から学んできたことです。しかしそれは、彼らの生活に結びついてはいませんでした(8:2-3)。どちらが正しい読み方かと言えば、後者が相応しいでしょう。いずれにしても、問題となっているのは「人々の形式的な信仰」なのです。

◆主の御前に生きる・・・聖書には主の御前に生きた人々の記録が数多く記されていますが、そのような者のひとりが「二枚のレプタ銅貨を献げたやもめ」でしょう。彼女は夫に先立たれて貧しい暮らしをしていた女性です。神殿で金持ちたちは、これ見よがしに多額の献金を献げ、人々はその信仰を称賛しましたが、主は「あり余る中から献金を投げ入れた」と言われます。これに対してレプタ銅貨二枚を献げたやもめについて主は「持っていた生活費の全部を投げ入れた」と、彼女の信仰を称賛しています。何故こんなことが出来たのでしょうか。それは神への感謝と信頼から出たことです。彼女は貧しさの中でもなお、自分を守り支えてくださる神を「知っていた」のです。その恵みの神に対する感謝から、持てるすべてを献げたのです。神の前に生きるひとりの信仰者の姿が、ここにもあるのです。

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