20210117 人を汚すもの マタイ15:10~20

◆天の父が植えなかった木・・・1~9節で主イエスは、イザヤ書29章の言葉を引用してパリサイ人の在り方を非難しましたが、この結果パリサイ人が腹を立てていると弟子たちは主に伝えました。これを受けて主は「彼らは天の父が植えた木ではない」と言います。これもまたイザヤ書に関連する言葉です。イザヤ書60章21節、61章3節を見ると、イスラエルの民は神に植えられたものと語られています。ですからパリサイ人たちは、たとえ他国の支配を受けたとしても、自分たちこそ「神に植えられた者」であるという自負の心に生きたのです。しかし主は、彼らの在り方について非常に厳しく非難されます。何故なのでしょうか。

◆聞いて悟りなさい・・・パリサイ人たちは、決していい加減な信仰の持ち主ではありませんでした。神の御言葉である律法を大切にして生きようとしたのです。そう考えると「彼らは天の父が植えた木ではない」との主の言葉は、厳し過ぎるように思えます。しかし主イエスは、「今の在り方は違う」と言われるのです。彼らは神が植えて下さった木を自分で引き抜いて、それを自分で植え直すように生きていました。そのようにしてパリサイ人は神との関わりを失っていたのです。

◆盲人の手引き・・・パリサイ人とて、日々の生活に於いて人との関わりは避けることはできません。その関わりの中には「異邦人」も「取税人」もいたのです。そこで得た汚れを浄めるため、彼らは懸命に手を洗ったのですが、主はそのような在り方について「盲人の生き方だ」と言われるのです。パリサイ人を非難する中で、主は「私の天の父が」と言っていますが、このような神との関わりが、彼らには見えなかったのです。律法についてどれ程詳しくても、その戒めを与えてくださった神との関わりを忘れる時に、人の心の目は見えなくなるのです。

◆人を汚すもの・・・主は16節以下で「人を汚すもの」について教えておられます。ここで主イエスは、ハッキリと「問題は心だ」と言われるのです。「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしり」と言うことは、「父母を敬え」という十戒に関連するものです。これらはパリサイ人にとって「守って当たり前」のことでしたが、主はこうした戒めをあげながら、あなたの心が曲がっているから、罪人や取税人と一緒に生きられないではないかと言われるのです。

◆弟子の足を洗う主イエス・・・どうしたら私たちは、神の御前に聖くあることができるのでしょう。ヨハネの福音書13章にそのヒントがあります。主は最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗われました。弟子たちには、この行為の意味が分かりませんでしたが、後に彼らは知りました。弟子のヨハネは後に、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(Ⅰヨハネ1:7)と言っています。主は私たちの罪を聖めるため、仕える者となってくださいました。それはキリストの十字架の贖いを示すもの以外の何ものでもありません。このキリストの血によって のみ、私たちの罪は聖められるのです。それ以外にはありません。

20210110 神のみことばに生きる マタイ15:1~9

◆食事前の手洗い・・・主イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わないことを、パリサイ人や律法学者たちが咎めました。これは衛生的な問題ということではなく、信仰的な行為として大切にされました。「異邦人、取税人や罪人」と見なされる者と関わったその手で、食物に触れることを嫌ったパリサイ人達は、食事前の手洗いについても細かな規定を設けて、神との聖い関わりを守ろうとしたのです。

◆主イエスの反論・・・パリサイ人と律法学者は、わざわざエルサレムから来たと1節にあります。恐らくそれは、主イエス訴える口実を探すための来訪であったと思われます。「なぜ食事前の手洗いをしないのか」(2)という問いも、主を貶めるためのものであったのでしょう。これに対して主イエスは、大変厳しい言葉で 反論をされますが、その要点は「神のことばを無にしている」(6)ということでした。

◆神と人を隔てるもの・・・パリサイ人派の人々は、神との聖い関わりを守るために一生懸命に努めました。「食事前の手洗い」も、そうした動機から生まれた規定であり、決して間違った動機ではありません。しかし、主イエスの反論を聞く限り、やはり何かが間違っているのです。その間違いについて主は、イザヤ書29章の言葉を引用しながら「心が神から離れている」と指摘するのです。聖書の文字を追いながら、彼らは神の心を受けとることを忘れていたのです。

◆自分たちの言い伝えで・・・過ちの要因は「自分たちの言い伝え」へのこだわりでした。そこで主は、「父母を敬え」という十戒の第五戒の扱いを例にあげて、彼らの間違いを指摘します。この戒めは親の扶養を意味するものですが、「言い伝え」によれば、扶養のための財産や物について、「神への献げ物になった」と宣言すれば、その責任が免除されたと伝えられてます。そう教える律法学者が悪いのか、それとも人々が悪いのか・・・、根本的な問題は人々の心に愛がないこと、そして、それは心が神から離れているからなのです。

◆神の愛が分かったから・・・Ⅰヨハネ3:15には「兄弟を憎む者はみな、人殺しです」とあります。今日の箇所で主イエスが言われる「父や母をののしる者は死刑に処せられる」という言葉に通じるものがあります。大変厳しい神の御言葉の前に、私たちは途方に暮れる思いがしますが、それは決して無意味な戸惑いではありません。何故ならば、ここに神の心が明らかにされているからです。Ⅰヨハネ3:15の聖句は、次のような御言葉が続きます。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです」(16)。

主イエスはご自身の愛を知らせようと、私たちを招いておられるのです。    主イエスの思いに気づくならば、いつでも聖書を読みなおし、神の心を受けとり直すことが出来るはずです。何故ならば「神は愛」だからです。

20210103 起きよ。光を放て。イザヤ書60:1~3

◆闇が地を覆う時代・・・イザヤ書の中でもよく知られた御言葉の1つですが、2節に「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている」とあるように、闇のような時代の中でこの御言葉は語られました。人々を覆う闇とは何なのでしょうか。この御言葉は、58章からの流れの中で語られているのですが、その中には、イスラエルの内にあった暗やみを垣間見ることが出来ます。

◆偽善の断食(58章)・・・58章10節を見ると、「飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。」と記されています。60章1節はこれを受けて語られたものと言えます。この3節以降で人々は、「断食」という信仰的な行為をあげて「なぜ祈りが聞かれないのか」と訴えていますが、主はこれに対して「断食をしていると言いながら、自分の好きなことをしているではないか」と言うのです。6節以降には「主が好む断食」として、数々の愛の行為があげられていますが、言い換えれば、これらの行為が人々の間で、蔑ろにされていたと読むことが出来るのです。

◆神と人を隔てるもの(59章)・・・ですからイザヤは、続く59章の冒頭で「神があなた方を救えないのではなく、あなたがたの罪咎が神との仕切りとなっている」と人々を責めるのです。「断食だ、安息日だ」と言いながら、その実は、神に背いて自分本意に生きている人々の偽善。あるいは、隣人に対して自分の力を行使して争う人々の生き方。それが神とあなたの間の壁となり、結局は自分で自分の人生を暗くしているとイザヤは言うのです。

◆贖い主の光のもとで・・・人々の偽善的な在り方を責めながらも、イザヤは59章20節で「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る」と言います。暗やみの原因が自分にあることに気づき、主の御前に心から悔い改める者のところに、主は罪を贖う者として来られるというのです。この「贖い主」とはイエス・キリストを指すものです。そもそも贖いという言葉の意味は「買い取る」というものであり、神は私たちを罪から解放するために、御子イエスを送り十字架で死なせられました。主イエスが私たちの罪の報いを「肩代わり」してくださったのです。このキリストの光に照らされて「起きよ。光を放て」と主は私たちに語られているのです。

◆キリストの光に照らされて・・・そのように、人がキリストの光に照らされて生きるとき、その光は「国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む」(3)とあるように、その周囲をも照らすことになります。主イエスは、ご自身の弟子たちに、「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません」と言われました。使徒パウロも「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい」と勧めています。新たな年もキリストの光に照らされて歩む教会であり、お互いでありたいと願います。