20201220 失敗したクリスマス ルカ2:1-7

◆飼い葉おけのキリスト・・・7節によるとヨセフとマリヤは、生まれた主イエスを「布にくるんで、飼葉おけに寝かせた」と記されています。ここから主イエスは家畜小屋で生まれたと見られるわけですが、それは宿屋に居場所を見つけることができなかったからでした。そして、生まれて間もない主イエスを、最初に祝ったのは、ユダヤ人たちが軽蔑したといわれる羊飼いたちでした。宿屋に居場所がないヨセフとマリヤ、家畜の餌箱に寝かされた神の御子、人々から軽蔑された羊飼い、このような人物たちを巡るクリスマスを見るとき、神はこの世の中で小さなものを愛し、隅に追いやられている者たちを大切にしておられことが分かります。

◆宿屋はいっぱいでした・・・ひとつの物語を紹介しましょう。主人公はウォリーと いう男の子です。勉強が苦手なウォリーは自分より年下のクラスで過ごさなければなりませんでした。毎年クリスマスには学校で降誕劇が行われますが、その年ウォリーは宿屋の主人の役をもらいました。劇が始まり、いよいよウォリーが登場する場面が来ました。ヨセフとマリヤが「泊まるところを探しているのです」と言うと、ウォリーは練習した通りに「どこかほかを探しな。宿屋はいっぱいだよ」と言いました。「妻は、おなかに赤ちゃんがいるので、休まなくてはなりません。とても疲れていますから」というヨセフの声を聞いたとき、ウォリーの様子が変わりました。台本の通りにヨセフがマリヤの肩に手をまわして、その場を去ろうとしたとき、それを見つめるウォリーの顔はこわばり、目にいっぱいの涙が溢れているのが、みんなにも分かりました。「ヨセフ、行かないで」とウォリーは大きな声で叫んだのです。「マリヤを連れて戻っておいで」そして、ウォリーは言いました。「ぼくの部屋に来ていいよ」。

こういうわけで、その年のクリスマス降誕劇は台無しになってしまいました。ウォリーは宿屋の主人の役を失敗したのです。しかし、それは本当に失敗だったのでしょうか。「あんたたちに部屋はないよ」、これが宿屋の主人の正しいセリフでした。「行かないで、戻っておいで、ぼくの部屋に来ていいよ」、それは宿屋の主人の正しいセリフではありません。けれどもそれは、愛にあふれた正しい言葉であったのです。

◆クリスマスのメッセージ・・・イエス・キリストは家畜小屋で生まれました。美しい物語のように語られることがありますが、よく考えればちっともいい話ではありません。家畜の餌箱に赤ちゃんが寝かされるなんて、ちっともいい話ではありません。長い旅の末に疲れ果てた者たちを、迎え入れる宿屋がなかったなんて、ちっともいい話ではありません。羊飼いであれ何であれ、仕事や身分で人が軽蔑されるなんてちっともいい話ではないのです。それは、私たちが生きる今の時代にもある話です。そのようなところに、神は御子イエスを送って下さいました。ここに神の愛は明らかにされました。これがクリスマスのメッセージなのです。

1320201206 暗やみに輝く光 ヨハネ1:1-5

◆ヨハネの福音書と創世記・・・創世記とヨハネの福音書の冒頭には、いずれも「初め に」という言葉が記されています。創世記の「初めに、神が天と地を創造した」に対 して、ヨハネは「初めに、ことばがあった」と記します。そして1章14節以下を読む と、この「ことば」こそ、イエス・キリストに他ならないと言われているのです。 紀元90年頃に書かれたと見られるヨハネの福音書ですが、それまでユダヤ教 の一派と見られていたキリスト教は、この時代にユダヤ教から切り離されました。 主の弟子たちは「イエスこそ真のキリスト」として、その証言文書を書き増していき ましたが、ユダヤ教の指導者は、70-90年の間に研究を重ね、今日の旧約聖書 につながる枠組を定めました。これに基づいて弟子たちの文書を「異端の用いる 異端的な文書」と断じ、キリスト者はユダヤ人社会から追い出されたのです。 このような大変厳しい時代の中で、ヨハネは「イエス・キリストこそ、天地の創造 に先立って存在したお方である」と宣言しているのです。ある意味でこれは、創世 記の冒頭にある「初め」という言葉について、イエス・キリストの存在を通して、 その伝統的な理解を訂正しようとする試みであったと言えるのかもしれません。

◆「まことの光」と「まことの闇」・・・創造の出来事に於いて、最初に創造されたのは 「光」でした。一方でヨハネの福音書もまた、その冒頭において「光」につい て語ります。9節には 「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしてい た。」とありますが、ここでもヨハネは、「光」という理解をめぐって、創世記と の比較の中でイエス・キリストの存在を明らかにしようとしています。ヨハネ は、イエス・キリストこそが「すべての人を照らすそのまことの光」であり、「この 方にいのちがあった」と言っています。主イエス・キリストの誕生を巡る聖書の 記事は、とりわけ「夜」を背景とした場面が多いことに気づかされますが、こ れは、クリスマスは「闇」の只中に、「まことの光」がやって来た出来事であ ることを告げようとしているのだろうと思います。

◆アドベントの過ごし方・・・教会の外に目を転じると、私たちが暮らすこの世界は、 今なお神のご支配に、完全に服していないことを思い知らされます。あちらこ ちらに「罪の闇」が色濃く残っています。人間はこのような「闇の力」に対抗 するため、自分の力によって「光」を造り出す営みを続けてきました。しかし、 「罪の力」の大きさは、本来人間の力の及ぶところではありません。私たちに 本当に必要なのは、「人工の光」を作り出すことではなく、「まことの光」に 立ち帰ること、そのために「偽りの光」を捨てることなのです。主イエス・キ リストの誕生を記念するクリスマスを、かけがえのないものとして喜び祝うた めに、私たちは自身を深く省みながら、消すべき「人工の光」を消し去るとい う作業に取り組んで行きたいと思います。

20201213 神に利用されたヨセフ マタイ1:18-25

◆ナザレのヨセフ・・・主イエスの父とされたヨセフという人物ですが、実のところその人となりは、あまり聖書の中でも語られていいません。限られた情報の中から、まず注目したいのがマタイ1:18~19の御言葉です。ここには「夫のヨセフ」とありますが、正確にはヨセフとマリヤはまだ婚約中の間柄でした。この当時の習慣では、婚約した男女は法的に夫婦と見なされるていたようです。

◆正しい人ヨセフ・・・更にヨセフについては「正しい人」と言われています。この場合の正しさは「律法に忠実に従おうとする」という意味での正しさです。律法によれば、夫でない者の子を宿した女は離婚され、石打ちにされなければなりません。しかしヨセフはマリヤの行く末を案じて「内密に去らせようと決めた」というのです。彼が正しさに拘る者であったなら、マリヤとその胎に宿ったイエス・キリストは死ぬことになります。しかし、ヨセフは「正しい人」であることを放棄することによって、マリヤと御子イエスの命を救う者となったのです。

◆ヨセフのふたつのイメージ・・・後にキリスト教が欧州に広まると、聖書に登場する人物に関して様々な伝説や俗説が生まれましたが、ヨセフについては二つの異なるイメージが生まれました。ひとつは「騙され利用された愚かな人」というイメージです。自分の妻を寝取られて、他人の子どもを喜んで育てているようなお人好しということです。もうひとつのイメージは、寄る辺のないマリヤと胎のキリストを守り抜いた者として、弱者を守る人というイメージです。確かにヨセフは神に利用された人です。それは一面では「愚かな生き方」にも見えます。しかしそれは「人を生かす愚かさ」であり、それは「人を殺す正しさ」よりも遥かに尊い生き方なのです。

◆神に利用された人・・・このように「神に利用された人」は、ヨセフにだけに限られたものではありません。例えばモーセはイスラエルの民を「約束の地」に導く器とされましたが、自身はそこに足を踏み入れることは出来ませんでした。預言者エレミヤは偶像礼拝にふける人々に、神の裁きと悔い改めを宣べ伝えましたが、人々はその言葉を顧みませんでした。そして聖書は、これらの人にまして徹底的に神に利用された人の姿を私たちに伝えています。それはイエス・キリストその人です。

イエス・キリストが十字架につけられた時、人々は「彼は他人を救ったが、自分は救えないイスラエルの王だ」と嘲笑いました。後の時代の人々がヨセフに向けた第一のイメージと同じです。自らを救うことが出来ないまま、罪人のために生きた主イエス・キリストにこそ、神の御心は映し出されていたのではないでしょうか。この神の御心を伝えるために、人となられた神の御子の誕生を思うクリスマスに、私たちもまた、「神に利用される人生」に招かれていることを心に刻みたいと思います。

神の御心は映し出されていたのではないでしょうか。