20191013 真実なことばの大切さ マタイ5:33~37

◆偽りの誓いを立ててはならない・・・『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』という文言は旧約聖書には見られませんが、しかし「誓いや誓願」に関する戒めは約30箇所ほどあり(伝道者5:4-5など)、律法学者やパリサイ人は、それらの総称として、上記のように教えていたと思われます。

◆決して誓ってはいけません・・・これに対して主イエスは「決して誓ってはいけません。」と言われます。人間の営みは「約束のことばを守る」ことで成り立ちますので、理解に苦しむ主の言葉ですが、その言葉の意図のヒントは、34節後半からの「天をさして・・・」という言葉にあります。

◆天をさして誓うな・・・「天をさして・・・地をさして・・・エルサレムをさして誓ってもいけません」というのは、当時の誓約の「決まり文句」であったと見られます。「主の御名をみだりに唱えてはならない」という戒めに従って、敬虔な人々は「神の名で誓う」ことを避け、これを「天、地、エルサレム」に言い換えました。そのように、神への畏れに端を発する「誓いの言葉」も、次第に意味合いが変わりました。マタイ23:16-1で主は律法学者たちの誓いを非難していますが、彼らは「神殿や祭壇」を指す誓いは果たされなくても仕方がない。しかし「神殿の黄金や供え物」を指す誓いは果たされなければならないと、利益は確保しつつ、巧妙に守らなかった場合の抜け道を作っていたのです。

◆頭を指して誓うな・・・それは、髪の色もコントロールできない「自分」に賭けて誓うなということでしょう。ペテロは、主の受難前夜に、躓き(主を否認する)を指摘された時、「死んでも知らないと言わない」と宣言しました。しかし、 主イエスの裁きの庭で、その関係を問われた時、彼は主の指摘通り、「知らない」と誓いを立てて否認したのです(マタイ26章)。

◆『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』・・・自分の言葉の真実を自分で証明しようとするとき、人は言葉の数が多くなります。それは神に対しても同じです。主が真実であることを認める人は、言葉を飾ることも、言い訳も必要はないということでしょう。

◆自分の誓いに挫折したペテロ・・・主イエスを否むことは、ペテロにとって愛の誓いに挫折した経験です。「初めからそんな誓いをしなければ…」と考える人もあるかもしれません。しかし、彼はそこで自我を砕かれ、主に見つめ られて泣くのです。この経験がなければ、彼は主の使命の担い手となることはできなかったでしょう。この主の眼差しのうちに、私たちもまた、「パリサイ人の義に勝る義」を知り、天の御国に生きる者とされるのです。

20191006 健やかな愛に生きるために マタイ5:27~32

主イエスは第六戒に続いて、第七戒の「姦淫してはならない」という律法の意味を説き明かされます。「…と言われたのを、あなたがたは聞いています」というのは、それがユダヤ人ならだれでも知っているという前提を示すものです。姦淫が悪いことは未信者でも分かります。しかし、それを真剣に考えようとしない時代に生きる私たちクリスチャンに、主は「姦淫とは何かを、本当に知っているのか」と問われているのです。

◆姦淫とは何か・・・「情欲をいだいて女を見る者は」と主は言われます。この場合の「女」とは、既婚または婚約中の女性を指すもであり、男女の幸せな結婚と家庭、あるいは婚約の結びつきの中に踏み込み、その愛の絆を断ち切り、家庭を壊す行為が「姦淫」です。

◆怒る者の内にある正義・・・姦淫は、実行に移される以前に「情欲をいだいて女を見る」ということから始まります。その典型的な例は、ダビデが部下ウリヤの妻バテ・シェバとの間に犯した姦淫です。それは沐浴するバテ・シェバの姿をダビデが見ることに始まりました(Ⅱサムエル11:2)。ダビデは謀略を巡らしてウリヤを戦死に追い込み、バテ・シェバを手に入れますが、後に主は預言者ナタンを通して、その罪を厳しく責めるのです。

◆あなたをつまずかせるなら・・・主は姦淫について、「右目・右手が躓きとなる なら、それを捨てなさい」と言われます。文字通りに実行すると大変なことになりますが、それは、愛の断絶、家庭の破壊、そして、罪に滅びゆく人々の魂に対して、主は「真剣」であるということです。この滅びゆく者に向けられた神の愛は、やがて御子イエスの十字架の死と復活によって現わされていきます。この厳しい御言葉の内にも、神の愛が輝いているのです。ですから私たちも、真剣に主の御言葉に聞いて生きる者でありたいと思います。

◆離別と姦淫の罪・・後半で主は「離別・離婚」を通して姦淫を問われます。姦淫はそれが発覚すれば、男女問わずに死罪となる重い罪でしたが、男性に姦淫が問われることはありませんでした。なぜなら女性は男性の「所有物」であり、そこでは「窃盗・盗み」の罪が適応されたのです。ヨハネ書8章の「姦淫の女」の記録はその典型でしょう。そこでは女性だけが責められています。しかし、ここで主は、「妻に姦淫を犯させる」という言葉からも分かる通り、こうした男性たちの無責任な姿勢を責められているのです。男女を問わず、主が愛の絆を大切にしていることを知る必要があるでしょう。誰であれ力の有無や、役に立つか立たないか、あるいは、好きか嫌いかという自分中心の判断で、切ったり捨てたりしても、されてもならないのです。

20190929 怒りを捨て、和解しなさい マタイ5:21~26

17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。・・・成就するために来たのです。」と言われた主イエスは、この箇所で十戒の第六戒「殺してはならない」の意味を説き明かしておられます。

◆容認される怒り・・・主イエスは「殺してはならない」という戒めについて、「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。」と言われます。大変厳しい律法解釈です。そうした思いもあってか、後の時代の写本には「腹を立てる者は」の前に「理由なくして」という句が加えられているものがあります。「容認される怒りもあるはずだ、そうでなければ納得できない」ということでしょう。

◆怒る者の内にある正義・・・「理由なくして」という言葉があって、ようやく主イエスの言葉が腑におちるとするならば、それは「少なくとも自分の怒りには正当な理由がある」という考えから来るのかもしれません。律法において「自分は正しくやっている」と自負する律法学者やパリサイ人は、それによって不法な者たちに腹を立てました。20節で主イエスは「あなた がたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、・・・天の御国に、入れません」(20)と言っておられますが、どうやら、この主の言葉の背後には、「自分で自分を正しいと認める律法学者たち」の存在があったようです。

◆怒りとさばきの三段階・・・22節で主は、よく似た3つの文章を重ねて、怒りに ついて警告をします。「腹を立てる」は怒りが口に出ていない段階、「能なしと言う」は、その怒りが言葉となった段階、「ばか者」という言葉は、神を信じない者を呪う言葉であり、それぞれに対する裁きも深刻度を増します。私たちは教会内で、そのように「怒り」に身を任せるような言動をとることはありませんが、時に気の合わないあの人、この人を、神の祝福とは関わりの ない人と思い込むことはないでしょうか。「あなたは、そういう人々を結局は殺してしまっているのではないか」と、主は私たちに問われているのです。

◆供え物をささげる前に・・・23~26節で主は「仲直り」を求めています。 「供え物をささげる」と言う行為は「神との和解」を意味します。パリサイ人たちにとって、それは自分の義を表現する絶好の機会です。しかし、主イエスは、そこで誰かと「仲たがい」していることを思いだすなら、「まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」と勧めるのです。人に「ごめんなさい」と言うのは勇気がいります。しかし、兄弟を赦すこと、兄弟に赦されること、そのように和解に生きるよう私たちを招いておられるのです。この主の招きを、どこまでも 素直に、素朴に受け止め、それに生きることを主イエスは求めるのです。