20190609 聖霊の働き  使徒2:1~4

◆聖霊と宣教・・・マタイ28章の最後に主は弟子たちに「あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、彼らを教えなさい。」と命じられました。大宣教命令と呼ばれる主イエスの命令は、この後、使徒2章において弟子たちを通して展開するのですが、この間に主は「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」と言われました。その約束とは「聖霊のバプテスマ」です。つまり、大宣教命令は弟子たちに聖霊が注がれたことにより成就し、この「ペンテコステの出来事」がなければ、今日のように、福音が世界中に伝え広がることはなかったでしょう。

◆聖霊のバプテスマ・・・ペンテコステの出来事について、主イエスは「聖霊のバプテスマ」という表現をされています。「バプテスマ」は、その言葉の意味として「一体となる」というものです。「ヨハネは水でバプテスマを授けた」と主は言われますが、それは「悔い改めのバプテスマ」であり、「罪なき神の子羊」と呼ばれるイエスは、ヨハネからこのバプテスマを受けられました(マルコ1:9)。それは、主イエスが罪ある人間と「一体」となられたことを意味するものであり、こうして罪人の一人に数えられ、十字架で葬られた主イエスに、聖霊は信じる者を「一体」としてくださるのです。主イエスの十字架と共に罪は葬られ、主イエスの復活と共に、信じる者は永遠のいのちに結ばれて生きるのです。

◆聖霊があなたがたの上に臨まれるとき・・・使徒2章では、弟子たちに聖霊が注がれたとき、「天からの風のような響き」と「炎のような分かれた舌の現れ」との、2つの「しるし」がありました。それは目に見えない聖霊の見聞きできる現れであり、4節の「御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」ことに焦点を向けさせるものでしょう。弟子たちが約束の聖霊を受けると言う出来事は、短的に言えば「あらゆる国の人々に、その人々の言葉で福音が伝えられていく」という出来事があったということなのです。

◆バベルの塔の事件・・・創世記11章の「バベルの塔の事件」は、「散らされまい」と結束する人間たちによって生じました。「大きな町と高い塔を建て、名をあげて、その場所に留まろう」と結束する人々、しかし、主の御心は彼らが「散らされる」ことであり、彼らは結束のうちから神を締め出しました。結果、主は彼らの「ことばを混乱させ」、人々を「散らされた」のです。一見それは、高ぶりに対する罰に思われますが、主の御心は初めから「散らされる」ことであり、それはやがて、主イエスの弟子たちに聖霊が注がれる中で成就されました。彼らは「主イエスの十字架と復活」という1つのことば(福音)によって、民族や文化や習慣の違いを超えて、地の果てに至るキリストの証人とされていくのです。この聖霊の働きは今日も変ることなく、私たちをも主の証人とするのです。

20190602 キリストの証人  ルカ24:44~53

◆十字架に躓いた弟子たちに対して・・・沈黙のうちに十字架への道を歩まれた主 イエスとは対照的に、復活後の主イエスは、40日という限られたときの中で、恐れと疑いの中にあった弟子たちを訪ね、「いま私は生きている、そのことを信じるものとなるように」と働きかけて下さいました。主イエスの十字架に躓いた弟子たちを、信じるものへと変えようとする主イエス、更には彼らが、ご自身の復活の証人となることを導く、主イエスの姿をルカはここで描いているのです。

◆弟子たちを証人とするもの① 「主の御言葉」・・・この箇所では、まず主のみ言葉が語られ、そこで弟子たちの心は開かれたことが記されています。「モーセの律法と預言者と詩篇」とは、旧約聖書全体を指す言葉であり、弟子たちが復活の証人として立つために、主イエスは、まず御言葉を説き明かされたのです。御言葉に聞くことを繰り返しながら、私たちの信仰の歩みが強められ、深められてゆかなければならないと聖書は語っています。

◆弟子たちを証人とするもの②「聖霊」・・・2つ目のものは「聖霊」です。キリストの証人は、人の努力や決心によって立つのではありません。それは弟子たちのように、聖霊に導かれていくこと抜きにしては、あり得ないと聖書は告げています。

弟子たちの中心的な役割を果たしたペテロは、最後の晩餐の席上で「たとえ何があっても、私はあなたに従ってまいります」と誓言しました。しかし、その数時間後に、彼は主イエスとの関わりを否定します。主によって選ばれ、愛され、育てられたペテロであっても、躓かざるを得なかったのが十字架の現実であり、それは人の決心の限界を物語っているものと言えるでしょう。しかし、主は躓いたペテロをもう一度選んで「あなたは私を愛するか」と繰り返し問い掛け、「私の羊を飼いなさい」と再び召し出して下さいました。そのように、キリストの証人は人の力によらず、ただ神の憐みと御霊によって立てられるのです。

◆教会と聖霊の働き・・・キリストの教会は「からだ」と表現されます(エペソ4:16)。それは、ペテロがそうであったように、教会も弱く脆く、また崩れやすい面を持っているということでもあります。そのような互いが、キリストの愛によって結ばれ、組み合わされて教会は建てあげられて行きます。

使徒パウロは、心で神の律法を喜ぶが、これとは別に罪に傾く性質があり、私を罪の律法の虜にしている、「私は、ほんとうにみじめな人間です」と嘆いています。しかし、この嘆きは私たちも同じでしょう。脆く欠けやすい「土の器」に譬えられる人間。しかし、その器のうちに主の憐みが注がれ、聖霊を満たされるとき、そういう弱さや限界をもちつつ、しかし教会は「キリストの証人」として立ち、その使命に生きることが出来るのです。主イエスは今も生きておられる事実の証言者として生きる互いであり、教会でありたいと願います。

20190526 人に頼るか、神に頼るか  エレミヤ17:5~8

◆信じる、信頼する意味・・・「信じる・信頼する」という事を聖書から読み解いていくとき、それは、自分の心を信じる対象に全て委ねることであり、それが失われれば立ち行かない程に、心を入れ上げることであると聖書は言います。主イエスは、「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。…神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:2)と言われました。ルターも、「今あなたがあなたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それがほんとうのあなたの神なのである」と 言います。神への信頼は人間の不足を補うものではなく、むしろ対立するもの であり、実際のところは、どちらかを選ぶしかないとエレミヤは語るのです。

◆神に頼るか、人に頼るか・・・エレミヤは、バビロン捕囚に至る南ユダ王国で、主の御言葉を語り続けた預言者です。アッシリヤに隷属して生き延びてきた南ユダですが、アッシリヤの力が衰えると、代わって台頭してきたバビロニア帝国の脅威にさらされます。この危機を乗り切るため南ユダは、西の大国エジプトと手を組み、バビロニアの侵略を防ごうとしますが、これを主は「心が主から離れ、人間に信頼するもの」と見て、神に頼るか、それともエジプトかという二者択一を迫っているのです。

◆頑なな罪人の心と、神の癒し・・・人(エジプト)を頼りとして生きる者たちは、荒れ地の木のように、祝福を得ることが出来ないと警告されます。これに対して、神を頼りとする者は、水のほとりに植わった木のように、日照りの年にも葉をつけ実を結ぶと言われます。「神への信頼の招き」は、出エジプト以来繰り返して、神がイスラエルに語り続けてきたことですが、しかし彼らは、神の手を何度も振り払うように、目に見える肉なる者を慕い、肉なる者に頼る歴史を積み重ねてきました。こうした人の罪深さについて、9節では「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」、「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる(新共同訳)」というのです。

神に信頼できない人の心が「とらえ難く病んでいる」と形容されています。これは単にイスラエル人を指すものではなく、「人の心は」とあるように、すべての人間の心を指し示すものと言えるでしょう。それは預言を語るエレミヤ自身も 例外ではありません。この後に、エレミヤは自らが語った神の言葉に打たれたかのように、「私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。私をお救いください。そうすれば、私は救われます」(14)と祈ります。それは、救い難い人間の罪をあらわす祈りの言葉ですが、同時に「主がいやして下されば、癒される、救われる」と、主だけが、この救い難い私を救うことのできるお方であるという「信頼の言葉」でもあります。その祈りの通りに、神ご自身が、罪に呪われた人の世界に分け入るように来てくださいました。それこそが、人となられた神の御子、主イエス・キリストなのです。