20190317 罪の赦しを信ず Ⅱコリント5:16~18

◆罪と裁き・・・聖書の「罪」は、「放たれた矢が的をそれてゆく様子」をあらわす言葉から来るものです。神との交わりの下で、神と向き合って生きる者として造られた人間が、神に背を向け、神の愛や御旨から離れて生きる様子を、聖書は罪と呼ぶのです。また、日本同盟基督教団は信仰告白において、罪と死の支配のもとにある人間は「思いと言葉と行為において罪ある者」と告白しています(ヘブル4:13、マタイ12:36~、Ⅱコリント5:10)。

◆人間的な標準・・・。こうした人間の罪に対して、主イエスは十字架により 人の罰を負われ、人が罪赦されて生きるために復活されました。このキリストの贖い故に、パウロは「人間的な標準」で人を知ることをしないと言い ます。それは、キリストと出会う以前の考え方や価値観で人を見ないということでしょう。パウロ自身、パリサイ人として教会を迫害するものでした。こうした消せない過去を受けとめつつ、それによっても人を、また自分を 評価しないと彼は言うのです。何故なら彼は赦されたからです。ルカ7章後半でイエスの御足に香油を注いだ女について、イエスは「この女は多くの罪を赦されている」と言い、その理由として「彼女はよけいに愛したから」ということをあげます。愛が赦しの条件になるわけではありません。しかし、赦された喜びが愛の行為として現れるのです。

◆赦された者として生きる・・・パウロは、「人を人間的な基準で見ない理由」を「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者」と言い、その新しさは「神との和解」(18)から来ると言います。和解とは「入れ替わる」という意味の言葉です。私たちの罪の刑罰を御子イエスの上に置かれた神は、罪のない神の御子イエスの「義」を私たちの上に置かれました。 私たちは「神との和解」を得たものとして生き、またこれを伝えるのです。宗教改革者ルターは、誘惑や試練に出会う度に、身近にあるものに「私は 洗礼を受けている」と書いたと言われます。洗礼は罪赦された者としての 証しであり、今もその信仰に生きている印です。私たちも赦された者として生き、また神との和解を伝える者でありたいと思います。

20190310 聖徒の交わり Ⅰコリント12:12~27

◆「聖徒の交わり」と「諸聖人の通功」・・・かつてカトリック教会は、この「聖徒の交わり」と訳される言葉を「諸聖人の通功」と訳していました。殉教者や敬虔な信仰ゆえに、聖人と認められた人々の功績に与り、自身の信仰では自分さえ救えない者が救いを得る。こうした交わりが「諸聖人の通功」です。しかし、功績は互いに融通できるものではなく、聖人と呼ばれる者の功績も人に罪の赦しを与えることはできません。救いはただキリストの十字架を信じる信仰によって、神から与えられる神の恵みなのです。

◆キリストを中心とした聖徒の交わり・・・「聖徒の交わり」という言葉は、「聖なるものの交わり」とも訳すことができる言葉です。つまり、聖なるものを中心とした交わりこそが、聖徒の交わりであり「教会」であるというのです。「聖なるもの」とは、すなわちキリストであり、教会はこの交わりを「聖餐」という事柄の中で守ってきました(参考・Ⅰコリント10:16~17)。聖餐は、私たちの罪の赦しのために御子を十字架に渡された「神の愛」の現れです。「聖徒の交わり」は、この神の愛を起点として生まれるのです。

◆キリストを介した聖徒の交わり・・・これは、キリストを介してクリスチャン同士が築く愛の関係です。パウロは、教会を「キリストのからだ」に譬えていますが、からだの器官はそれぞれにキリストと結ばれ、同時に器官同士もつながっています。そうして、誰かの苦しみは全体の痛みになり、誰かの祝福は全体の喜びになる中で教会は建てあげられ成長するのです。  (参考:Ⅰコリント12:25~27)

◆分かち合い、仕え合う交わり(Ⅰペテロ4:7~10)・・・からだの器官に譬えられる私たちには、それぞれに富と賜物が与えられています。それは、自分自身を豊かにするために用いられるのではなく、「互いのために喜んでささげ、仕え合うためである」と教えられています。しかも、それは主から賜物を委ねられたものとしての「責任」であることを「わきまえなければならない」と命じられているのです。「聖徒の交わりを信ず」と告白するとき、今一度その交わりの意味を、深く心に留める者でありたいと思います。

20190303 我は聖なる教会を信ず マタイ16:13~18

マタイ16章18節の「教会」とは、「あなたは、生ける神の御子キリストです」という信仰告白にならう「信仰者の群れ」です。ここでは、私たちの信仰告白と教会ということを考えてみましょう。主イエスが弟子たちと共にピリポ・カイザリヤ地方を訪れたとき、主は2つの質問をされました。

◆人々は人の子をだれだと言っていますか・・・これは、「世間の人々はわたしのことをだれだと言っているのか」と言う質問です。弟子たちは「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」と、人々の主イエスに対する見方を伝えました。

◆あなたがたは、わたしをだれだと言いますか・・・これを聞いていた主イエスは、もう1つの質問をされます。それは、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」(15)。この質問は、彼らがイエスとどのような関わりを持とうとしているかを尋ねる問いといえるでしょう。

◆あなたは、生ける神の御子キリストです・・・シモン・ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答え、これを聞いた主イエスは、「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」と告げられました。この時点でペテロは、主イエスが何故に「キリスト」なのか理解していません。彼は主イエスの裁きの場で、3度イエスとの関係を否定します。しかし、そのようなペテロから、教会の土台となる信仰の告白が語られたとき、主は、この信仰に立つ教会に「ハデス(死の支配)の門も打ち勝てません。」と言われるのです。

◆信仰の告白に生きる教会・・・ペテロの告白は人類史上初の信仰告白です。そして、信仰の土台に立つ教会は、幾多の信仰的な戦いの中で「告白・信条」を定めてきました。この時代に「使徒信条」をもって信仰を告白する私たちは、その告白に生きる教会として、何を祈り、何を語り、どのように歩むべきでしょう。教会の歴史の中の「今」に生きる者として、告白する信仰に生きることを、祈り追い求める教会でありたいと思います。