20181223 王なる主イエス・キリスト 詩篇9:1~11

東の国から来た博士たち(マタイ2章)・・・東の国から来た博士たちの「ユダヤ人の王  としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか」という言葉は、ヘロデ王を困惑させました。彼は「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言いますが、その本心は、居場所が分かったら殺してしまおうというものでした。博士たちは御使いに戒められ、ヘロデのところに戻る ことはありませんでした。そして、「ユダヤ人の王」と呼ばれる者の居場所が分からないヘロデ王は、ベツレヘム周辺の2歳以下の子供を皆殺しにして、自分の 王座を守ろうとしたのです。

羊飼いの礼拝(ルカ2章)・・・マリヤとヨセフが住民登録のために、ベツレヘムを訪れたとき、マリヤは月が満ちて、主イエスが誕生しました。彼らは御子を飼葉おけに寝かせますが、その理由は「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」と聖書は記しています。身重の妻のためにヨセフは必死に部屋を探したことでしょう。しかし、誰も彼らを迎え入れることはありませんでした。

ヘロデ王にしても、ベツレヘムの人々にしても、基本的には王として来られた御子 イエスを心から歓迎しようとはしません。これが聖書が告げる罪人の真相です。人生の王座に自分で座りつづけることを願う者にとって、神の御子が王としてお生まれになったことは、けっして喜ばしいことではないのです。

王としての役割(詩篇9篇)・・・王の果たすべき役割は、例えば、主権者として国を治め、領民を敵から守り、また、彼らに豊かな暮らしを与えることなどが挙げられます。 主イエスが王であるという意味には、これらが含まれますが、もう1つ大切な役割があります。それが詩篇9篇で謳われている「正しい裁き」ということです。

Ⅰ列王記3章後半に「ソロモン王の裁き」という記事があります。1人の子に2人の女が「母親」を名乗り、ソロモン王に裁きが求められた時、王は「剣で子どもを切り分け、公平に2人に与えよ」と命じました。本当の母親は「自分の物にならないとしても、子どもを殺さないで」と子どもを諦めます。しかし偽りの母は「自分の物にならないとしても、あの女にとられるのは嫌だ」と、子どもを切り分けることを求めました。この返答を聞いて、初めの女を本当の母と認めたソロモン王の裁きは、近隣の国々にも響き渡りましたが、3章の前半を見ると、ソロモン王に「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心」を与えたのは神であったと記されています。

王座を明け渡す・・・私たちが、救い主との出会いに「新しい人生」を歩み始めることを願うとき、まず、そこで求められるのは「王座を明け渡す」ことです。神の祝福を 求める人の中にも、「基本的には自分の人生の計画は自分で立てるので、神は私の 計画を祝福してくれればよい」と考える人がないわけではありません。「ヘロデ 王って悪い奴」、「ベツレヘムの人は冷たい」と思うひともいるが、私たちも今一度、自分の人生の王座に座しているのは誰なのか、自分が王なのか、それとも主イエスが私の王なのかを問い直してみましょう。

20181216 救い主を探す旅 マタイ2:1~12

輝く星に導かれて(1~2)・・・東の国で、ユダヤ人の王の誕生を示す星を見た博士たちは、それを祝うために、遠い道のりを旅してエルサレムへと到着しました。彼らは王として生まれる方がいる場所は、神の都エルサレムの王宮と考えたようです。それは、極めて常識的な判断でしたが、そこには、生まれた王はいませんでした。9節で星が再び彼らを主イエスのもとに導いたように、星は一時、博士たちから隠され、まっすぐに救い主のもとへと彼らを導きませんでした。何故なのでしょう。

博士たちが見たもの(3~8)・・・星を見失った博士たちが、王に相応しい場所として訪れたエルサレム。そこで彼らが目にしたものは、彼らの期待を裏切るようなものばかりでした。王の誕生を祝う人々はおらず、かえって、ヘロデ王はそれを恐れ、また町の人々も同様でした。王が生まれた場所を問うヘロデに、側近の祭司長や律法学者達は、即座に「ユダヤのベツレヘムです」と、旧約聖書の預言から答えます。しかし、彼らがそこに出向くことはありません。そういった人々の反応は、王の誕生を祝うために、はるばる東の国からやって来た博士たちを落胆させたことでしょう。

人を導く神のタイミング(9~10)・・・しかし博士たちは、ヘロデ王に命じられエルサレムからベツレヘムと向かう夜道で再び星を見出します。この時の博士たちの喜びはどれ程のものであったことでしょう。ある意味で、主の導きは彼らの期待や、人間の常識とは反対の場所へと博士たちを導きます。王としてお生まれになった方は、都ではなく小さな村に、王宮ではなく家畜小屋に、豊かさや美しさの中にではなく貧しさの中におられると言うのです。

人は何時でも上をめざします。生活も地位も、成績も評価も、上を目指すことこそ価値あることで、下にさがることは望みません。低い所にキリストはおられるとすれば、それは私達の常識に反することでしょう。しかし、現にキリストはベツレヘムのはずれの家畜小屋に生まれ、星は博士たちをそこに導きます。それは、彼らの価値観と人生観に変化をもたらす旅と言えるでしょう。10節には「彼らはこの上もなく喜んだ。」とあります。この喜びが私達にも差し 出されているのです。

博士達の旅があらわすもの(11~12)・・・・・・最後に、クリスマスの喜びを手にした博士たちの歩みから、3つの心に学びたいと思います。1つ目は「求める心」です。博士達は真理を求め、求めて知った所に従って旅立ち、救い主のもとにたどり着くまで求め続け、遂に見出したのです。2つ目は「信仰の心」です。博士たちはイエス・キリストに出会った時に神をあがめて礼拝をささげました。3つ目は「献身の心」です。黄金・乳香・没薬をささげた博士たち。これは主の恵みに対する彼らの応答であり、献身のしるしです。主イエスの救いは、私たちに罪の赦しを与え、そこから、本当に価値ある人生へと私たちを導きます。二千年前に博士たちは、まことの王キリストを求めて旅をしました。私たちは今日、まだ主を知らない多くの旅人がキリストと出会うように、この旅を主イエスと共に続けているのです。

20181209 主を待つ者の暮らし Ⅰテサロニケ4:13~18

「アドベント」という言葉は「到来」という意味を持ちます。二千年前ベツレヘムにお生まれになった神の御子イエスの誕生を記念するクリスマスは、まさに「到来」の出来事ですが、主イエスの到来はそれだけではありません。主イエスはこの世界に、将来もう一度来られるのです。第一の到来であるクリスマスと、第二の到来である 再臨との間の時代に生きる私たちにとって、主イエスの到来に備えるという意味では、第二の到来に対する意識がやはり重要でしょう。そこで、主の到来を待つ者たちは、具体的にどのよう備えをする必要があるかを、4章全体から確認しましょう。

聖い生活(1~8)・・・旧約聖書の律法を見ると、しばしば「主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」(レビ19:2)ということが 語られています。主にお会いすることを待ち望む者は、聖なるお方にお会いするために自らも聖くあることが求められています。黙示録は再臨の主イエスを「花婿」に 譬え、これを待つ者については「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである」(19:8)と教えています。

仕事に身を入れた生活(9~12)・・・当時のテサロニケ教会には 「主イエスの再臨と共に神の国は到来し、いまの世は終わる」ということを誤解し、仕事や責任を放棄して、隣人の好意に寄りかかるような者たちがあったようです。こうした者たちにパウロは「自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい」と警告し、信仰に立って堅実な生活をすることを勧めます。主の再臨は遥か先のことか、あるいは明日のことかは分かりません。いずれにしても罪赦された者として生きるキリスト者は、現在の生活を大切にして、委ねられた働きに身を入れて暮らすように聖書は教えているのです。主を待ち望む生活は、そういう意味で「浮世離れしたもの」であってはならないのです。

再臨の主を望む生活(13~18)・・・テサロニケの人々の間には「主イエスの再臨を待たずに死んでしまった人たちは、滅んでしまった」という誤解がありました。しかし、パウロはそうした人々を「死んだ人々」とは呼ばず、「眠った人々」と呼んでいます。それは「再び目を覚ます」という意味に他なりません。愛する者との別れは、誰にとっても悲しみであり、心の痛みを禁じ得ないことです。しかしパウロは、キリストが再びおいでになる時、「まず、キリストにある死者がよみがえる」と言い、さらに「生き残っている者も、彼らと一緒に雲の中に引き上げられる」と明言します。また会えるのです。それは、何という大きな慰めでしょう。

そして、その慰めの最たるものが「空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります」というものです。この地上でどんなに報われないことがあっても、やがて、主イエスお会いすることが出来る。そして、私たちも主イエスと同じ栄光の姿にかえられ、いつまでも主とともにいることになるのです。この約束を心に留めて、キリストの到来に備える者でありたいと思います。