20180826 マルタ島からローマへ 使徒28:1~15

パウロ一行を乗せた船は、嵐の地中海を2週間漂流し、マルタ島沖に座礁しました。ここから乗員はそれぞれに海岸を目指し、彼らはみな嵐の難から救い出されました。

◆島民の誤解・・・島の人々は、漂着した人々のために火を焚いて親切を示してくれましたが、この時、柴の中にいたマムシがパウロの手を咬みました。これを見た島民は「この人はきっと人殺しだ。海からはのがれたが、正義の女神はこの人を生かしてはおかないのだ」と話し合いました。ところが、マムシに咬まれても害を受けないパウロを見ると、今度は「この人は神さまだ」と言いだしました。因果応報的にマムシに咬まれたパウロを悪人と見る一方で、そこで害を受けないと「神さまだ」と見る。揺れ動く島民の評価に対してパウロは抗弁をしません。パウロは状況の良し悪し、人の評価の変化に左右されず、ただ主に信頼し淡々と人々に仕えているのです。

◆首長ポプリオの父の癒し・・・島民の誤解に対してパウロは何も語りませんが、しかし、自分が神さま扱いされるのを受け入れたということではありません。島の領主ポプリオの招きを受けたときに、彼はここでポプリオの父の病を癒していますが、ここでは「祈ってから、彼の上に手を置いて」と記されています。これは、病を癒す力は「主なる神」からくることを示すものであり、パウロ自身は神ではなく、むしろ、神に祈る立場にある人間であることを証しするものと言えるでしょう。その後、3カ月にわたって彼らは島民に仕え(医者ルカや動労者の奉仕)、彼らは島民の尊敬を受けることになりました。

◆ローマへ・・・冬の間マルタ島に滞在したパウロ一行は、地中海航路の再開を待ち、いよいよローマ半島上陸に向けて出港します。シシリー島のシラクサ、イタリヤ半島南西端のレギオンに寄港し、ナポリ湾北岸ポテオリに上陸したパウロは、この町の兄弟たちのもとに7日間滞在し、ここから陸路でローマを目指しますが、その噂を聞いたローマの兄弟たちがパウロを迎えに来てくれました。ポテオリの兄弟姉妹とともに献げる礼拝、迫害に耐えて信仰を守るローマの兄弟姉妹との出会い。こうした信仰の交わりによってパウロは勇気づけられ、励まされてローマに到着したのでした。こうした兄弟姉妹との出会いと励ましを、主はパウロに備えてくださいました。パウロの宣教はこうした恵みに支えられていたのです。

20180819 希望の食事 使徒27:27~44

パウロを乗せた船は、ローマに向かう途中のクレテ島の沖で嵐に巻き込まれ漂流を始めました。しかし、パウロは主の約束に立って、人々に「私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます」と励ましの言葉を語ります。

◆逃げ出す水夫・・・パウロのことばは、人々にとって大きな励ましでありましたが、事態はすぐには好転しませんでした。船はその後2週間以上、困難な航海を続けていたのです。14日目の夜、どこかの陸地に近づいたように感じた水夫たちは、座礁を避けるために錨を下ろしますが、彼らは、そのさなかに小舟を下ろして、自分たちだけで逃げ出そうとしました。この動きを察したパウロは、兵士たちに警告してこれを止めます。人々が助かるためには水夫たちの働きは欠くことができず、彼らが逃げ出すことは、神の計画を妨げるものであったのです。

◆食事の勧め・・・その後パウロは、人々に食事をとることを勧めます。上陸のために彼らは海を泳がなければなりませんでした。神の約束に信頼するパウロですが、彼は成り行き任せの態度はとりません。主に信頼すればこそ、自分たちがすべき「準備」に誠実に取り組んでいるのです。

◆上陸へ・・・夜が明けて陸地がみえると、彼らはそこを目指して進み始めます。錨を捨て、舵綱をとき、帆をあげて浜をめざします。しかし、思い通りに事は進みませんでした。船は浅瀬に織り上げ座礁してしまったのです。この危機に際して、兵士たちは囚人が逃げることを恐れ彼らを殺す相談を始めますが、百人隊長はこれを止め、上陸に伴う囚人たちに関する責任の一切を負おうとします。その動機はパウロを助ける為であったと聖書は記しています。

◆こうして、彼らはみな、無事に陸に上がった・・・「こうして」という言葉は、直接には百人隊長の判断に従い、皆が陸に上がったことを指すものですが、広い意味では、カイザリヤ出航以来の一連の経過と見ることができます。そこに描かれている人々の判断は、必ずしも適正なものではありません。また、思うように事が進まないこともありました。しかし、こうした人間的な判断も、神が事を進め、約束が成就してゆくためのステップとなりました。

上陸に至る一連の記録は、神の約束がどのような過程を経て成就するかを教える事例と言えます。百人隊長も兵士も水夫も、主がパウロに与えると約束された大切な命であり、主は船上の276人を用いて、『パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。』という約束を成就してくださるのです。

20180812 平和の君イエス イザヤ書9:1~7

◆ゼブルンとナフタリの地のはずかしめ・・・この預言がイザヤによって語られた当時(紀元前8世紀)、イスラエルは北と南に分裂し、北王国は大国アッシリヤによって滅ぼされ、更に侵略の危機は南王国にも及んでいました。「ゼブルンの地とナフタリの地」とは、最初にアッシリヤの手に落ちた地域です。占領された地域の主だった人々は捕囚として連れ去られ、この地域には異邦人が入植しました。ですから、この地域は同胞ユダヤ人から「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるようになったのです。

◆やみの中の民を照らす光・・・イザヤは、これらの戦禍について1~5章で、イスラエルの罪の結果と語りますが、9章では「争いの終結と平和の回復」を預言します。「死の陰の地に住む者たちを照らす光」とは、イエス・キリストを指し示すものです(マタイ4:14)。

◆不思議な助言者・・・光と称されるキリストのご性質について、6節は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」という4つの名称で表しています。はじめの「不思議な助言者」は、4節の「ミデヤンの日」と関わるものです。士師ギデオンの時代、繰り返しミデヤン人の略奪に苦しめられたイスラエルを救うものとして、神はギデオンを選び、彼の下には32000人の勇者が集いました。しかし、神は兵士の数が多すぎる」として300人に減らし、これによって13万のミデヤン人を打ち破りました。その助言は、実に不思議なものでした。

◆平和の君・・・4つの名前の最後にあるのが「平和の君」です。この平和とはヘブル語でシャローム、ギリシャ語ではエイレーネーという言葉です。これは人の人生のあらゆる領域について「不足のない満たされた状態」を意味する言葉で、新約聖書ではこの言葉がしばしば「平安」と訳されます。個人的な心の状態である「平安」と、「平和」とは同じ言葉であり、それは両者が密接に関わっていることを意味するものでしょう。

◆平和はどこからくるのか・・・誰であれ「平和」は大切なものと思いますが、しかし、誰もが平和を実感できる時代は遠いように思います。平和はどこからくるのでしょう? イザヤは預言の最後で「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」と言います。真の平和は神の熱心によって成し遂げられる。そして、人が平和の君であるイエスを心に迎え、平和を成し遂げる神の熱心に心を向けるところから、真の平和は、極めて現実的なものとして、私たちの間に打ち建てられるのです。