2180304 決断をせまる御言葉 出エジプト20:1‐17

◆第一戒と第二戒とは密接な関りをもち、ここからカトリック教会やルター派の教会は両者を合わせて第一戒めとします。しかし、カトリック教会は彫像や絵画など、目に見える様々な物を信仰の対象とし、「自分のために、偶像を造ってはならない」という戒めに対する態姿勢は曖昧なものでした。そこで、以降のプロテスタント教会は、これを偶像礼拝に対する教会の姿勢を示すものとして、第二戒に数え大切にしてきました。

◆偶像礼拝との決別・・・第イスラエルが導き出されたエジプトは、「千の神々がいる国」と言われたほど偶像の多い国でした。400年に亘りこの国に寄留したイスラエルが、そこで受けた信仰的な影響は、決して小さなものではなかったでしょう。出エジプトに際して神がエジプトの下された10の災いは、みなエジプトの偶像に関わるものでした。エジプトを出て約束の地カナンを目指にあたって、神が民に求めたことは、今一度、礼拝されるべきお方は誰かをはっきりさせることであったのです。

◆自分中心の礼拝との決別・・・偶像礼拝とは、自分に都合の良い神を人間が作り、これを礼拝する行為です。つまり偶像は私たちの心の欲求を形にしたものなのです。この後、律法を刻んだ石板を授けるために、神がモーセをシナイ山に招かれたとき、モーセの帰りが遅いことで不安になり、彼の消息が分からないことを恐れた人々は、アロンに神を造ること要求し、金の子牛を礼拝しました。不安と恐れの解消のための偶像礼拝は、その中心に自分を置くものです。ですから神は、「自分のために偶像を造るな」と、自分中心の礼拝からの決別を迫るのです。

◆まことの神のみを礼拝する決断・・・「偶像礼拝との決別」、「自分中心の礼拝との決別」の決断を迫る第二戒は、同時に「まことの神のみを礼拝する」という決断を促す御ことばでもあります。この日本で偶像と決別して、まことの神のみを礼拝すると決断するならば、少なからず避けられない衝突や葛藤があるのは事実です。しかし、この戒めには「わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」という約束が伴います。真実な礼拝と言う恵は、単に私たちの世代に留まるものではなく、私たちの子どもたちの祝福につながるのです。ですから、私たちの教会は、偶像礼拝と戦い、真実な礼拝を共に築き上げることを、大切にしたいと思います。

20180225 主の御前に生きる 出エジプト20:1~17

◆宗教改革者マルティン・ルターは、十戒の第一戒の意味について、『われわれは、何ものにもまして、神を畏れ、愛し、信頼すべきです。』と教えています(ルター小教理問答)。十戒それ自体は、確かに厳しく律法的な響きをもつものですが、これによって指し示される神と隣人への愛ということを学びながら、共に神への信頼を育んでいければと願っています。

◆ほかの神々があってはならない・・・第一戒は、しばしば結婚の誓約のようなものだといわれます。キリスト教式の結婚式では、新郎新婦に誓約が求められますが、そこでは互いに対する愛について『いのちの日の限りあなたの妻、また夫に対して堅く節操を守ることを約束しますか。』と問われます。夫が妻以外の誰かを、逆に妻が夫以外の誰かを密に愛していたとするならば、健全な夫婦の関係は成り立ちません。そういう夫婦の関係に、神はご自身と私達をたとえているのです。

◆わたしのほかに・・・文語訳聖書はこの部分を「わが顔の前に」と訳し、『汝、わが顔の前に、我のほか何物をも神とすべからず。」としています。これは原文のニュアンスをよく表すもので、第一戒が、まず私たちに求めるものは「神の御顔の前に生きる」ということなのです。宗教改革者ジャン・カルヴァンは、この神のみ前に生きるという言葉(ラテン語:コーラム・デオ)を大切にし、口癖のように語ったといわれています。宗教改革の激務の中でカルヴァンは、生まれて間もない息子を病で失い、また愛する妻にも先立たれます。こうした彼の歩みを支えたのは「神のみ前に生きる」という信仰であったのです。

◆あなたは・・・十戒において神はイスラエルを「あなた」と呼んで戒めます。ですから十戒は、神と私と言う個人の関係の中で語られているものと読むことも出来ますが、それだけではありません。神は神の民イスラエルを一人の人格のように見て、彼らを「あなた」と呼ぶのです。この神の民の歴史は、やがてキリストの教会へと受け継がれてゆきます。真剣に神の戒めに向き合う時、私たちは自分の弱さ足りなさを認めざるを得ないものですが、同時に、この神の戒めの言葉は、神の教会に語られ、私たちはその示されるところに「一緒に生きてゆく」のです。「あなたは」という言葉は、こうした教会の交わり、クリスチャンの結びつきを示しているのです。

20180218 あなたの神、主である 出エジプト20:1~17

◆十戒・・・主の祈り、使徒信条、十戒は、「三要文」と言われます。三要文は、教会がキリスト教信仰の要として大切にしているものです。しかし、この中で十戒は、礼拝の中であまり読まれることがなくなったと言われます。それは、律法的で堅い雰囲気を嫌う教会の傾向を反映するものと言えるでしょう。しかし十戒は、今日も御国を望んで生きる者の指針であり、私たちに神の御旨を示し続ける「信仰の規範」であることに変わりありません。

◆十戒の前文の重要性・・・律法全体の要約である十戒は、神に対する四つの戒めと、隣人に対する六つの戒めからなりますが、律法が堅く冷たいと言うイメージを持たれる一つの理由は、前文である「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」という御言葉がしっかりと理解されていないところにあるのでしょう。

◆あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した・・・出エジプトの出来事をまず神はイスラエルの民に思い起こさせます。約400年にわたりエジプトに寄留し、奴隷の民として苦役を強いられたイスラエルを、神ご自身がそこから連れ出したという救いの出来事。これが十戒の前提となっているのです。

◆あなたの神、主である・・・この個所に限らず神がご自身について何かを語る時に、必ずと言って良いほど用いられる言い方です。本来、罪ある人間は聖なる神のみ前には、決して立つことのできない存在です。ですから、19章の後半で神は、モーセにシナイ山の周囲に境界を設けさせ、人々が不用意に神に近づくことを厳しく戒めておられます。これら罪ある人間と聖なる神との距離感です。しかし、こうした現実の中で神はイスラエルに「わたしは…あなたの神、主である」と、ご自身を明らかにしておられます。これは、「神ご自身が私たちの交わりを築いて下さる」という表現です。

◆まとめ・・・この二つの事柄が、十戒の一つ一つに掛かってくるのです。十戒だけをみるならば「あれをしてはならない、これをしなければならない」という言葉の繰り返しに、正直なところ堅苦しさを感じることもあります。しかし、これらの戒めを「救いの出来事」と「神との関わり」を前提として読むとき、それは、ただ私たちの行動を制限するだけのものではなく、クリスチャンの毎日の暮らしの方向性を示す、大切な指針であることがわかるでしょう。