20171217  愛する理由 Ⅰヨハネ4:7~16

◆愛の源泉である神(7~8)・・・主にある兄弟姉妹に「愛し合うこと」を進めていますが、その根拠について彼は「愛は神から出ているのです」と記しています。ヨハネは愛の有無をクリスチャンの基準に挙げていますが、この背景には「グノーシス主義」の影響がありました。彼らは「知識(グノーシス)によって神を知ることができると考えました。こうした人々にヨハネは、「愛のない者に神はわからない。なぜなら神は愛だから」と戒めるのです。

◆愛の表現であるイエスの生涯(9~10)・・・愛についてヨハネは「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」と、それはまず神が明らかにしてくださったと記します。そして、それは、人となって世に生まれ、十字架で人の罪を贖うイエスにおいて示されたと教えるのです。これこそが、ヨハネが愛し合うことを勧める根源にある理由です。

◆愛し合うことの大切さ(11~12)・・・ヨハネはこのように、神の愛を受けて「互いに愛し合うべきです。」と勧めます。しかし、自分が愛した分、相手も自分を愛してくれるとは限らないのが現実です。「愛憎」という言葉もありように、愛が憎しみに変わることもあるのが人の愛です。しかし、神は私たちが罪人であったときに、一方的に愛を示して、私たちのために御子を下さったのです。この愛に生きることができるように、神は私たちの内に住んでくださるのです。

◆クリスチャンもしるしである愛(13~14 )・・・私達が互いに愛し合うことができるのは、神の御霊が私たちのうちに生きていて下さるからです。逆に言えば、不完全なようでも、私達が愛に生きようと願い祈る時、それは私たちのうちに神の御霊が生きていてくださる大切な「しるし」であるとヨハネは教えます。イエスキリストは「愛し合うこと」を私たちへの新しい戒めとされました(ヨハネ13:34-35)。この愛に生きるとき、私たちがイエスの弟子であることを、全ての人が認めるというのです。互いに愛し合うことは、クリスチャンの大切な「しるし」であり教会の旗印です。目に見えない神の証しは、私たちが愛し合うときに表されるのです。

20171210 強いられた沈黙 ルカ1:5~23

◆ザカリヤとエリサベツ(5~7)・・・ザカリヤとエリサベツのことが紹介されていますが、彼は祭司であり、妻とともに神の御前に正しく歩みました。しかし、二人には子供がありませんでした。

◆祭司の働き(8~10)・・・祭司の主な働きは、全焼のいけにえと、穀物のささげものを献げ、至聖所の火を守り、香を献げることでしたが、香を献げる務めは生涯に一度しか就くことができない大切な務めでした。この務めが回って来たとき、ザカリヤは思いがけない経験をします。

◆ヨハネ誕生の告知(11~17)・・・御使いが香壇の右に立ち、ザカリヤに妻のエリサベツが男の子を産むことを告げます。それはザカリヤと妻が切に願い求めたことでした。しかし、ザカリヤは「私も妻も年寄りです」という理由で素直にその告知を受け入れませんでした。

◆強いられた沈黙(18~23)・・・高齢という「現実」がザカリヤの心を支配しています。アブラハムは100歳で子供を授かり、預言者サムエルの母ハンナも不妊の女と呼ばれました。しかし、高齢と妻の不妊という現実に心が支配されたザカリヤにとっては、これらは、非現実的な昔話にしか思えなかったのかもしれません。

◆沈黙は罰か恵みか・・・ザカリヤの不信に、御使いガブリエルは「あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです」と、不信に対する罰が告げられます。信じているようで信じていない状況がザカリヤの内に見て取れますが、しかし、御使いは続けて「私のことばは、その時が来れば実現します」と告げるのです。

「信じられない理由」を語るにおいて、私たちはザカリヤ以上に饒舌です。神はザカリヤの不信の言葉を取り去り、沈黙の中で「神の言葉は必ず実現する」という事実を見させようとしているのです。後に妻がヨハネを生んだ時にザカリヤの舌は解け、彼が最初に口にした言葉は「神をほめたたえる」(1:64)ことばでした。強いられた沈黙はザカリヤにとって、確かに辛い経験でした。しかし、彼はそこで「神の言葉は必ず実現する」という事実を人生の経験として学んだのです。

20171203 主の道をまっすぐにせよ マタイ3:1~12

◆バプテスマのヨハネ(3:1~4)・・・バプテスマのヨハネは、神が約束された救い主の到来に先駆けて遣わされ、人々がキリストをお迎えするための備えをさせた人でありました。これは、旧約聖書イザヤ書40章3節に預言されたもので、そこには「主の道を整えよ」ということが命じられています。この「整えよ」という言葉は、元来「除く」という意味の言葉ですので、ヨハネの役割は、イエスの到来に際して人々の心の中にある「神にふさわしくないもの」を取り除くというところにありました。

◆パリサイ人とサドカイ人(5~10)・・・「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」というメッセージを聞いた人々が、ヨハネから「悔い改めのバプテスマ」を受けました。こうした人々の中にパリサイ人とサドカイ人を見たヨハネは、「まむしのずえたち…」と非常に厳しい警告を語ります。彼らは、「アブラハムの子孫」だから裁かれないと心の中で考え、形式的に「悔い改めのバプテスマ」を受けようとする者たちでした。こうした者たちにヨハネは、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」と戒めるのです。

◆聖霊と火とのバプテスマ(11~12)・・・この言葉には2つの意味があります。1つは罪を悔い改めない者への裁き、もう1つは、罪を悔い改め、イエスに従うものへの聖霊の助け(使徒1:8)です。これは使徒2章の出来事によって成就しましたが、今もイエスを信じる者の内に行われ続ける、神の約束なのです。

◆悔い改めにふさわしい実(ルカ3:9~14)・・・ここで具体的に「貧しい者を助け、不正を行わず、与えられたもので満足しなさい」と勧められています。これはヨハネの警告を聞いた人々の、「私たちはどうすればよいのでしょう」という問いに答えたものですが、この問いは、自分の中に確かに罪があることを認めるからこそ生まれる、率直な問いではないでしょうか。私たちはどうでしょうか?

罪の赦しは神からの恵みです。神は「へりくだる者に恵みをお授けになる」(ヤコブ4:6~10節)と約束してくださいました。聖書のみ言葉に信頼して、心から主を待ち望むお互いでありたいと思います。