20171105 主のみこころのままに 使徒21:1~14

エルサレムでのパウロ逮捕の予告は、すでに聖霊によってパウロ自身に明らかにされていましたが、エルサレム途上の町々で、再びこの苦難が聖霊によって告げられとき、人々はパウロのエルサレム行きを反対しました。

エルサレム行きを止める人々(4-12)・・・フェニキヤのツロでは弟子たちが、カイザリアでは、預言者アガポの苦難の予告を聞いた土地の人たちと、パウロの同行者がエルサレム行きを止めました。パウロの身を案じる人々は、聖霊は危険を避けさせるために、苦難を予告したと考えたのでしょう。

エルサレムに向かう決断と葛藤(13)・・・エルサレム行きを止める人々にパウロは、「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。」と言います。泣きながら「エルサレムに行かないでください」と哀願する人々の愛に触れ、パウロの心は揺れ動いています。しかし彼は、伝道者の使命と人々の愛との間で葛藤しつつ、「私は、イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。」と、この苦難もまた、主から委ねられた「福音のあかし」という務めの一部であるという確信を深めるのです。

主のみこころのままに(14)・・・パウロの覚悟を知った人々は、ただ「主のみこころのままに」と言って黙ってしまいました。それは、「あきらめ」とも読めますが、この言葉は、ルカ22:42の「みこころのとおりにしてください。」というイエスの祈りと全く同じ言葉です。十字架の前夜、イエスは「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。」と祈ります。我々の罪を負って神に捨てられる苦しみの意味を、イエスは知っておられました。しかし、その深い葛藤の中でイエスは、「みこころのとおりにしてください。」と自身を父なる神に委ねるのです。

両書の記者であるルカは、死に至るまで父なる神に従い通すイエスと、イエスの御足の後に踏み従って歩むパウロの姿を、「主のみこころのままに」という言葉で結び付けています。「主のみこころのままに」という言葉は、主に従うことを願う者の、「方向性」を示す、大切な言葉と言えるでしょう。

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