20171112 パウロとモーセの律法 使徒21:17~26

ユダヤ人クリスチャンの誤解(17-21)・・・エルサレムに到着したパウロ一行 は、兄弟たちの歓迎を受け、翌日エルサレム教会の指導者ヤコブと長老 たちを訪問しました。恐らく、異邦人教会からの支援金はここで渡され たのでしょう。こうしてパウロは第三回伝道旅行の1つの目的を達しま すが、このとき、長老たちはユダヤ人クリスチャンたちがパウロに対し て抱いている1つの誤解を伝えます。それはパウロが「「子供に割礼を 施すな。慣習に従うな」と律法に背くよう教えているというものでした。

◆誤解を解くための提案(22-26)・・・これはあくまでも「誤解」であること を、ヤコブも長老たちも理解していました。しかし、パウロの教えを 巡って(例・ガラテヤ5:2-4)、ユダヤ人が躓きを感じていたことは事 実でした。そこで長老たちは、請願を立てた四名の清めの儀式に同行し、 その費用を持つことで、パウロが律法を尊重していることを証明するよ うに提案し、パウロはこの提案を受け入れます。しかし、ここで問題に なるのは、救いは律法の行いによるのでなく、イエスへの信仰によると 教えるパウロが、なぜ誓願に参加したのかということです。

◆パウロの判断の原則・・・こうした自身の判断について、パウロは「私は だれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての 人の奴隷となりました。」と言い、また「私はすべてのことを、福音の ためにしています。」とも言います(Ⅰコリント9:19-23)。これが パウロの判断の原則です。彼は赦された者として許された自由を、 「人々の救いのため・福音のため」に用いることを願います。

◆自由の用い方・・・私たちもパウロ同様に、イエスへ信仰により自由とさ れた者ですが、この自由を主の喜ばれるよう用いるために、パウロは 「愛によって働く信仰」(ガラテヤ5:4)ということを勧めています。 クリスチャン同士でも、考え方や判断には微妙な違い があり、そうした違いが、誤解や意見の衝突につながる こともあり得ます。そのような時に、私達の言動が「愛 によって働く信仰」から出るものなのかを、立ち止まっ て考える習慣を、お互いに身に着けたいものです。

20171105 主のみこころのままに 使徒21:1~14

エルサレムでのパウロ逮捕の予告は、すでに聖霊によってパウロ自身に明らかにされていましたが、エルサレム途上の町々で、再びこの苦難が聖霊によって告げられとき、人々はパウロのエルサレム行きを反対しました。

エルサレム行きを止める人々(4-12)・・・フェニキヤのツロでは弟子たちが、カイザリアでは、預言者アガポの苦難の予告を聞いた土地の人たちと、パウロの同行者がエルサレム行きを止めました。パウロの身を案じる人々は、聖霊は危険を避けさせるために、苦難を予告したと考えたのでしょう。

エルサレムに向かう決断と葛藤(13)・・・エルサレム行きを止める人々にパウロは、「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。」と言います。泣きながら「エルサレムに行かないでください」と哀願する人々の愛に触れ、パウロの心は揺れ動いています。しかし彼は、伝道者の使命と人々の愛との間で葛藤しつつ、「私は、イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。」と、この苦難もまた、主から委ねられた「福音のあかし」という務めの一部であるという確信を深めるのです。

主のみこころのままに(14)・・・パウロの覚悟を知った人々は、ただ「主のみこころのままに」と言って黙ってしまいました。それは、「あきらめ」とも読めますが、この言葉は、ルカ22:42の「みこころのとおりにしてください。」というイエスの祈りと全く同じ言葉です。十字架の前夜、イエスは「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。」と祈ります。我々の罪を負って神に捨てられる苦しみの意味を、イエスは知っておられました。しかし、その深い葛藤の中でイエスは、「みこころのとおりにしてください。」と自身を父なる神に委ねるのです。

両書の記者であるルカは、死に至るまで父なる神に従い通すイエスと、イエスの御足の後に踏み従って歩むパウロの姿を、「主のみこころのままに」という言葉で結び付けています。「主のみこころのままに」という言葉は、主に従うことを願う者の、「方向性」を示す、大切な言葉と言えるでしょう。

20171129 信仰義認 ローマ1:16~17

福音は救いを得させる神の力(16)・・・パウロはローマ教会に向けて、「私は福音を恥とは思いません。」と言っています。Ⅰコリント1:22-24を見ますと、イエスの十字架について、「ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人(ギリシヤ人)にとっては愚かでしょうが」とあります。ユダヤ人にとって木(十字架)にかけられた者は「神に呪われた者」(申命記21:23)であり、知恵を愛するギリシヤ人にとっては、聞くに値しない愚かな教えであったようです。これに対してパウロは「私は福音を恥とは思いません。」と宣言します。その理由について、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」と言います。

福音のうちに表された神の義(17)・・・イエスの福音を信じるだけで人はなぜ救われるのでしょうか。それは「神の義」が福音の中に啓示されているからです。宗教改革者マルチン・ルターは、この「神の義」について、それが「信仰によって与えられる恵み」であることを再確認した人です。「神の義」によって罪人は裁かれると考えられた時代にあって、ルターも敬虔な生活を目指しました。しかし、そうした行いの中でルターが感じたのは、自分の罪深さでした。敬虔な生活の中に平安を見いだせないルターは、深い信仰的葛藤に苛まれ続けますが、ある時、詩篇31篇の冒頭で「神の義」と「神の助け」が一緒に語られていることに目が止まり、ここから、神の義は罪人を裁くための義ではなく、罪人を義とするための恵みであることを知るに至ります。

義人は信仰によって生きる(17)・・・「その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです」とあります。これは神との正しい関係は信仰によって始まり信仰によって完成される」という意味で、これは、旧約聖書の時代から一貫する真理です。その一つの例が、「義人は信仰によって生きる」(ハバクク2:2)という言葉で、これは、紀元前7世紀後半イスラエルにカルデヤ人が侵略してきた時の預言者ハバククのことばです。 彼は懸命に武器を作り、戦略を練れば勝利できるのではなく、主に拠り頼む者は勝利を得ると言いました。義人は信仰によって生きるとは、そういう意味のことばなのです。