20170820 知られない神に 使徒17章16~34節

知恵を求めるギリシヤ人(16~21)・・・アテネの町に溢れる偶像に憤りを感じ、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと、また、広場ではそこに居合わせた人たちと論じました。広場に居合わせた人々の中には、エピクロス派(神々と人との関わりを否定。享楽主義)や、ストア派(世界=神と考える汎神論・禁欲主義)の哲学者がありました。新しい思想や哲学を求め、論じることに興じて日々を過ごしていた人々は、パウロが語る福音にも関心を示し、彼をアレオパゴス(町の運営や裁判を行うための会議)に連れて行き、詳しく聞かせてほしいと願いました。

パウロのメッセージ(22~31)・・・パウロは町で見かけた「知られない神に」と記された祭壇について、「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう」(23)と言い、神とはどのようなお方であるかを以下のように説明します。 ①まことの神は、世界をお造りになられた創造主である。(2425) ②神は、私たちから遠く離れてはおられない。(26-28) ③罪のさばきの確証を与える、イエスの死と復活。(29-31)

人々の反応・・・話を聞いていた人たちについて、ある者はあざ笑い、パウロを愚かな者だと蔑みました。またある人は、「このことについては、いずれまた聞くことにしよう」と言い、当たり障りのない言葉で茶を濁し、語られた真理と自分との関わりを考えようとはしません。恐らくこれが、耳新しい教えを求めて日々を過ごしていたアテネの人々の、一般的な反応であったのでしょう。しかし、このアテネでの伝道の記録は、「彼(パウロ)につき従って信仰にはいった人たちもいた。・・・」という言葉でまとめられています。これは、何処であっても福音が語られる時、そこで神を捜し求め、信仰に導かれる人たちがあることを示す、確かな記録と言えるでしょう。

20170813 聖書を調べる 使徒17章10~15節

テサロニケからベレヤへ・・・釈放されたヤソンと兄弟たちは、その夜のうちにパウロとシラスをベレヤへと送り出します。テサロニケの西方80㎞に位置し、街道から南に逸れたベレヤは、迫害を逃れて身を隠すのに良いと考えたのかもしれません。しかし、ベレヤに到着したパウロとシラスは、テサロニケ同様にユダヤ人会堂に入り、イエスの福音を語りました。

みことばと神の国・・・ユダヤ人会堂に入り福音を語れば、テサロニケ同様に迫害が起こることは十分に予想できましたが、ベレヤでの人々の反応は少し違いました。彼らは「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」というのです。現代のように、だれもが聖書を持っている時代ではありません。恐らく人々は、会堂に日参して、そこで聖書を借りて、パウロとシラスが語ることが、聖書に裏づけられたものなのかを調べたのでしょう。

イエス・キリストを指し示す聖書・・・そのように「熱心に、毎日、聖書を調べた。」ことは、「彼らのうちの多くの者が信仰に入った。」という結果につながりました。「聖書を調べる」という表現について、イエス・キリストはユダヤ人に対して、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。」と言いますが、続くところで「その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」と言われました。ユダヤ人もまた「聖書を調べる」人々でした。しかし、彼らは「聖書が証しするイエス」という視点を欠いていたのです。「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:3)とイエスは受難前夜に祈られました。永遠の命は、聖書が証しするイエスを知ることによって与えられる恵みなのです。

20170806 イエスという別の王 使徒17:1~9

聖書に基づいて論じる・・・ピリピを離れたパウロ一行が、次の伝道の地として導かれた町はテサロニケでした。パウロはユダヤ人会堂において、「三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた」(2)と記されています。「論じる」という言葉の元々の意味は「並び立てる」というものです。つまり、イエスこそ約束のキリストであるということは、聖書の真理に裏付けられたものであることをパウロは立証したのです。

ユダヤ人の訴え・・・語られた福音のことばに対して、幾人かのユダヤ人と異邦人が信仰へと導かれましたが、一方で、「ねたみにかられたユダヤ人は、町のならず者をかり集め、暴動を起こして町を騒がせ、」(5)ました。パウロとシラスを捕えるために、ヤソンの家を襲ったユダヤ人は、二人を見つけられませんでした。そこで、ヤソンと幾人かの兄弟を役人のところに連れてゆき、パウロとシラスについて「イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行ないをしている」と言い、ヤソンと兄弟たちをその共犯者として訴えました。

イエスという別の王・・・パウロは、「権威」ということについて、神によらない権威はなく、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。」(ローマ13:1)と教えます。しかし、権威を許される神を無視して、ローマ皇帝のように、人が神のように振舞うことを許されたわけではありません。カイザルの名に象徴される「人間の権威」、ローマの名に象徴される「国家の権威」が、反聖書的な決定を人々に求めるとき、私たちは為政者のために祈りつつも、勇気をもって「No」と言える者でありたいと思います。また、私たちの心の「王座」から、イエスを退けようとする、様々な誘惑にも、毅然として「No」と言える者でありたいと思います。