20170618 試みと悪からの救い マタイ6:9-13

1)試練は良いものか悪いものか・・・「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」と祈るようにイエスは教えます。一見すると誰にでも分かる祈りの教えですが、聖書を何度か読み返していくうちに、かえって、この祈りの教えの意味が分からなくなることもあります。その理由として、一つは聖書全体をみると「試み・試練」は必ずしも悪いものではなく、むしろ大切な役割を負うものであることを教えいます。例えば、ヤコブ書1:2-4節には「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」とあります。この聖句は、試練が信仰者の成長のためには必要であることを教えています。 もう1つは、試練が神によってもたらされことがあるからです。この最も顕著な例はアブラハムでしょう。「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。」と(創世記22:1)、神ご自身が、アブラハムを試練に遭わせと聖書は記しています。神はアブラハムに、一人息子のイサクを生け贄として捧げるように要求されました。このように、神ご自身が人を試みや試練にちびかれるとするならば、またそれによって、私達が整えられるとするならば、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」と祈るようにイエスが教えていることの意味はどこにあるのかということになるわけです。そこで、まず「試み・試練」という言葉の意味を考えてみましょう。

2)試練と誘惑・・・「試み・試練」の意味をつかむことが難しい理由を二つ挙げましたが、更に、このことを難しくするもう一の理由があります。それは翻訳の問題です。「試み・試練」と訳される「ペイラスモス・πειρασμος」というギリシャ語は、別のところでは「誘惑」と訳されています。「信仰の成長をもたらす試練」と、「信仰も破綻をもたらす誘惑」が同じ言葉で語られますから、聖の理解が深まれば、ほかの個所との比較の中で、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」という祈りの教えに矛盾を感じることは無理もないことです。ルカの福音書 11章に記されている、もう一つの主の祈りにおいては、この第六の祈りは「私たちを試みに会わせないでください。」とだけ記されていますが、マタイは「悪からお救いください。」という言葉を加えています。これは、イエスが語られた「試み」が、悪に至る誘惑であることを示するものと言えるでしょう。

3)誘惑はどこから来るのか・・・

「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」という祈りの「悪」という部分について、新改訳聖書は欄外に「悪い者」という注釈が加えられています。これは、ギリシャ語の聖書を見ると、「悪」という言葉の前に冠詞は付けられているために、「悪」とも「悪いもの」とも訳されるものですが、誘惑ということの背後にある誘惑者の存在ということを、やはり私たちは無視すべきではないように思います。それでは、誰も私たちを試み誘惑するのでしょうか。聖書は明確にふたつの誘惑者その存在を語っています。

第一の誘惑者は、私たち内側にいます。それは肉に属するところです。「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」(ヤコブ1:14)とヤコブ書にありますが、私たち自身の内側に、私たちを誘惑するものがあることを認めざるをえません。

第二の誘惑者は私たちの外側にいます。それはサタンの存在です。サタンはアダムとエバを誘惑し、人間と神との関係を罪によって壊すことに成功したわけです。このように、人間は罪あるものとして生まれ、その罪の裁きである「死」に定められたものとなりました。しかし、神は私たちの罪を贖うために、ひとり子イエスを与えてくださったのです。イエスがキリストとして、人々の前に公に御自信を示されたとき、サタンは再び試みるものとしてイエスの前に現れます。これが、マタイの福音書4章に記された「荒野の誘惑」の出来事です。

4)荒野の誘惑・・・「あなたは神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」(4:3)、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。」(4:6)、「もしひれ伏して私を拝むなら、これ(世のすべての国々とその栄華)を全部あなたに差し上げましょう。」」(4:10)という三度に渡る誘惑に対して、イエスはすべて申命記の聖句を挙げてそれを退けています。多くのことを学ぶことのできる個所ではありますが、ここでは イエスが申命記の聖句をもってサタンの誘惑を退けていることに注目したいと思います。申命記の時代、イスラエルの人々は奴隷の国エジプトから解放されて、神が約束された地カナンを目指して旅をしましたが、本来であれば、さして時間のかからない距離を、彼らは40年間かけて旅をしなければありませんでした。その原因は不信仰です。彼らはしばしば、水や食物のことで不平不満を言い、あろうことか、彼らはエジプトにいた方がよかった、神は私たちを殺すためにこの荒野に導き入れたのかとつぶやくのです。これに対してイエスは、イスラエルの人々と同じように、40日の間、荒野で断食して過ごされ、同じよう試みを、その中で、神のみ言葉をも誘惑に勝利されました。「人は主の口から出るすべてのもので生きる」ということ、つまり、神の御言葉である聖書こそ、いかなる試練のなかにあっても、私達が第一とすべきものであるかを示されました。

5)誘惑に勝利する力・・・「試練と誘惑と、またこれにどう対処すべきか」ということにも話しが及びましたがマルコ14:38には「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」というイエスの御ことばが記されています。これは、イエスが十字架に架けられる前夜、ゲッセマネの園で祈られたとき、そこに伴ったペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子に言われたことばです。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」とイエスは弟子たちに命じますが、ほどなくして彼らは眠り込んでしまいます。これに気付いたイエスが、彼らに語った戒めの言葉ですが、「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」という、私たちの弱さの現実をしるイエスは、「目をさまして、祈り続けなさい。」というのです。この「弱さの自覚」と「すでにイエスは十字架で罪に勝利された」という信仰こそが、本当の意味で私たちの心を、第六の祈りへと向かわせるのでしょう。

私たちは、自分の弱さを知っていますが、その弱さの加減を、少し甘く見積もってしまうことがあります。「確かに弱いけれども、それを人に言われると腹がたつ」ということはないでしょうか。心の中の奥底では「弱い現実を認めたくない」という部分があるように思います。しかし、イエスは「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」という祈りの教えを通して、また、「「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」という戒めの言葉を通して、試練と誘惑に勝利する力は「神から来るもの」であることを、明らかにしているのです。

20170611 霊とまことの礼拝 ヨハネ4:19-24

1)イエスと女性のかみあわない会話・・・ヨハネの福音書4章には、イエスと一人のサマリヤ人の女性の出会いの出来事が記されています。「水」という事を巡って始まったイエスと女性の会話は、15節までのところを見ますと。全くかみあっていません。何故でしょう。14節でイエスが「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません・・・。」と話したときに、彼女はそれを「飲み水」と解して、わざわざ水を汲みに来なくてもすむように、「その水を私にください」といいました。しかし、イエスが語る「水」は「罪に赦しと永遠の命」を指し示すものであったのです。この溝がトンチンカンな会話の原因です。しかし、これは決して珍しいことではありません。よくよく考えてみるならば、私たちが礼拝に来る理由も、この女性のように「自分に必要な水」を求めるためという事が無いとは言えないでしょう。

 2)女性の問題への指摘と礼拝・・・この少しトンチンカンな会話は、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(16)というイエスのことばによって、徐々に女性の生き方の問題に向かって行きます。彼女の抱えていた問題について、イエスは「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。」(4:-18)と、それを示したときに、彼女は「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」(19)とイエスの尋ねるのです。ここでも少し会話がかみ合っていないように思えますが、この「夫に関する事柄」は彼女の本質的な問題でした。人目を忍ぶように水を汲みにきた女性の問題を見通しておられるイエスに出会ったときに、彼女の心(その関心)が神に向けられたことは、ある意味で礼拝の起点が、私たちの罪の事実の一切をご存じであり、悔い改めと赦しに招いておられる神への喜びと感謝にあることを示しています。

3)霊とまことの礼拝・・・「私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」(19)という彼女の言葉は、ユダヤ人とサマリヤ人の対立を背景にしたことばです。サマリヤ人とユダヤ人とはもともと同じ血族ですが、紀元前10世紀の後半、南北に分裂したイスラエル王国の、北十部族を率いたヤロブアムは、将来、人々が南王国のエルサレム神殿での礼拝を慕い南王国に流れてゆくことを恐れて、「この山」と言われるゲルジム山に神殿を建て、礼拝すべき場所はゲルジム山であると主張しました。紀元前8世紀の終わりに、北王国はアッシリヤ帝国に滅ぼされ、以降、人々の移動に伴って持ち込まれた偶像や土着の宗教が入り混じり、民族的・信仰的な純潔は失われてゆきますが、こうした理由で、ユダヤ人はサマリヤ人を嫌い蔑むようになっていったのです。

21節で主イエスは、礼拝が特別な場所や、特定の民族に限ることのない時が来ることを教え、また、22節では、ユダヤ人とサマリヤ人の礼拝についての説明が加えられていますが、やはり、要点は23節です。「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」。旧約時代の礼拝は、「献げもの」とこれを定めた規定(律法)に従って献げられてきました。それ自体は、礼拝者が気ままに神を礼拝して罪を犯すことが無いために大切なことではありました。しかし、そうした規定にのっとった礼拝は、ともすると「定められたことさえ守っていれば大丈夫」と、礼拝が形式的なものに成り下がる危険がありました。ダビデ王は預言者ナタンから、バテ・シェバとの姦淫を指摘されたときのことを詩篇51篇に書き残していますが、そこにはこのようなことが記されています。「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:16-17)。

形は人の目に見えるものですが、霊は人の目に映りません。神との交わりよりも人の評価や評判が大切に思えるとき、私たちの礼拝も形式的なものに成り下がる危険があるのでしょう。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(24)という、このイエスは戒めの御ことばと真剣に向き合って、今一度、心から神を礼拝する者となることが出来るよう祈りたいと思います。

 

20170604 キリストのからだである教会 エペソ1:20-23

「聖霊降臨節」は、主の復活を記念するイースターから数えて50日目ということで「五旬節(ペンテコステ)」ともいわれますが、使徒の働き2章の記録によると、この日に主が約束された聖霊が弟子たちに降り教会は誕生しました。イエスの復活、その証人としての歩みを始めた弟子たちは、人々に彼らの分かる言葉で福音を語り伝えますが、こうした中で、信仰に導かれた人々は「毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。」とあり、また「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」と、このように聖霊は教会を生み出してくださいました。

1)神のからだとしての教会・・・使徒パウロは、教会とは「キリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」(23節)と定義しています。教会が「キリストをかしらとするからだ」ということには2つの意味があります。

①キリストとの一体性・・・「頭」と「からだ」が一体であるように、キリストと教会は一体なのだということが第一の意味です。使徒の働き9章でサウロ(パウロ)は、クリスチャンたちを捕らえ殺害するために、ダマスコ(現在のシリア)に向かいますが、ダマスコの近くまで来たときに、天からの光が彼を巡り照らし、その光の中でイエスは、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」というサウロに問うのです。このことは、キリストと教会とは、ひとつのからだであること、キリストの教会が痛むときに、主イエスもまた痛んでおられることを掲示する事例と言えます。パウロは迫害を加える立場ではありましたが、教会はキリストのからだであることを現実の経験を通して知る者とされたのです。

②からだの器官としてのクリスチャン・・・教会が「キリストのからだ」と呼ばれる第二の意味は、キリストは私たちをご自分のからだとして用いてくださるということです。からだは実に多種多様な器官から成っていますが、それぞれはみな「頭」によって統一されて機能します。私たちも同様にそれぞれに異なる賜物が与えられてますが、それぞれが信仰によってキリストに結ばれて、また、神の愛によって互いに結ばれていくときに、「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:16)とあるように、神のからだである教会は建て上げられていくのです。

2)召された者たちの歩み・・・「教会」と訳されている元々の言葉は、「エクレシアἐκκλησία」というギリシャ語です。「召された者たちの集り」という言葉ですが、「召された者」には召された者にふさわしい歩みがあることをパウロは教えています。エペソ4:1~6を見てみましょう。

4: 1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。4: 2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、4: 3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。 4: 4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。 4: 5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。4: 6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

2-3節が具体的に求められていることであって、4節以降はその根拠と見られます。「謙遜、柔和、寛容、愛、忍耐、平和」という事は、ガラテヤ5:22-23に記されている「聖霊の実」に通じるものであり、要するに、このような「聖霊が与える一致を熱心に保ちなさい」という勧めです。そうした一致の大切さは誰もが承知していることですが、これを保つことは容易なことではありません。だからパウロも「熱心に保ちなさい」と勧めているのでしょう。私たちの教会にもいろいろな人がいます。主は夫々異なる賜物を与えておられますが、同時に私たちにはそれぞれに弱い点もあります。先ほど、エペソ4:16の聖句の中に「備えられたあらゆる結び目」という言葉がありましたが、私たちは互いに支え合うという意味では、この弱い点で結ばれていると言ってもいいでしょう。これが「からだ」ということが示すもう一つの意味です。ですから、教会では誰であれ、「役に立たない」と言って軽蔑されてはならないし、自分をその様に思ってもならならないのです。私たちの心が頭なるキリストから離れるとき、教会の一致は容易に失われてゆきます。ですから、いつでもキリストの心を向け、それぞれに弱さも強さも共有し、ある時には忍耐しなければならないこともあるでしょうが、御霊の一致を熱心に保つお互いでありたいと思います。