20170507 みこころを求める心 マタイ6:9~13

1)天と地の違いはなにか・・・この第三の祈りは、「みこころが行われる2つの場所・領域」として「天」と「地」を挙げています。「地」、つまり私たちが暮らしているこの世界で「みこころが行われる」ためのモデルとして、「天」が挙げられているわけですが、なぜ、私たちの暮らすこの世界では「神のみこころ」が、天で行われるように行われないのでしょうか?また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、{また彼らの神となり、}彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである(黙示録21: 1~4)。死、悲しみ、叫び、苦しみ、これらは、いずれも罪によってもたらされるものであり、神のみこころが何にも妨げられることなく完全に行われる「天」には罪がないのです。つまり、私たち人間の罪が、この地で神の御心が行われることを妨げるものなのです。

2)「神のみこころ」を妨げる罪の問題・・・確かに私たちは、毎日の暮らしの中で明らかに「みこころ」ではない多くの事柄に関わって生きています。新聞やテレビ、ネットのニュースを通して、私たちは信じがたいような悲劇や事件が毎日のように見聞きします。それ自体恐ろしいことです。しかし、もっと恐ろしいことは、こうした現実に対して私たちが無関心になってしまうことかもしれません。 イエスが弟子たちに「みこころが地で行われますように」と祈るよう教えられたことは、それ自体、イエスが私たちの生きるこの世界に特別な関心を持っておられることを明らかにしています。神のみこころは天では行われていますが、地では行われてはいないのです。こうした現実に私たちが無関心でいるとするならば、それこそが「みこころ」ではありません。何故ならば、この世界のさまざまな問題は根源的には人間の罪によるものであるからです。しかし、神を離れて、「自分」を中心に生きたいと願う人の罪が働きを解決する力は私たちにはありません。だから、私たちはみこころの実現を切に求めて「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と祈る必要があるのでしょう。

3)みこころを祈る者から広がる神の国・・・それでは、人間の罪が妨げとなり、「みこころが天で行なわれるようには、この地で行なわれていない。」とうい現実に目が向くときに、みこころを求めて祈る私たちには何が出来るのでしょうか。それは「福音をつたえる」ということです。私たちには、罪の問題を完全に解決することのできる、ただ1つの鍵ともいえる「福音」が伝えられています。イエスは全ての人の罪を負って十字架で死なれ、3日目に死に打ち勝って復活されました、この福音を私たちは受け派遣されてゆくのです。使徒パウロは「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16)と告白しているように、福音こそが人を救いに導くのであり、神は私たちに求められているのは「伝える」ということなのです(ローマ10:13~17)。イエスはご自身について「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。」(ヨハネ6:36)と語られました。私たちも主に送り出されて生きるそれぞれの場所で、「みこころが地で、そして私の歩みに中で行なわれますように」と心から祈り、また、この祈りによってお互いに結ばれて、今週も主にみ前に新たな歩みを、共に始めてゆきたいと思います。

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