20170430 みこころが地でも行われますように マタイ6:9~13

1)「みこころ」とは何か・・・私たちは、この「みこころ」とは何ということでしばしば迷いを感じます。ですから、この「みこころ」が何かを具体的に知ることは重要な課題と言えるでしょう。主の祈りにおいて「みこころ」と訳されている言葉は「意思」(θέλημά )という言葉が訳されたもので、直訳すると「神のご意志」ということになります。

神の意志① 神のご計画・・・「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」(エペソ1:5)この「みこころ」は神のご意思として既に定められてものであって、たとえ状況や環境が如何に変化したとしても、何においても妨げられることのない「みこころ」ということです。旧約聖書には神の民とされたイスラエルの度重なる神への背きの記録が記されています。しかし、罪深い人間の愚かな歩みによっても、神の救いの計画が妨げられることはありませんでした。私たちはどうでしょうか。私たちも失敗をします。神の栄光どころか、人の躓きとなっているのではないかと心配になるのが私たちの現実かもしれません。しかし、「みこころ」という言葉で示された、神の救いの計画は変わることはないのです。

神の意志② 神の民への期待・・・「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)ここでの「神のみこころ」とは、神が神を信じて生きる人々に「望まれること」、あるいは「期待されること」としての「みこころ」です。ある意味で、この「みこころ」を選ぶ判断は、私たちの自由に委ねられいます。ですから、ここでパウロは「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」と勧めているわけです。

2)どうすれば「みこころ」が分かるのか・・・この神さまの私に対する「みこころ」ということを、皆さんはどのくらい意識して生活しているでしょうか。「毎日の暮らしの中で出遭う具体的な課題に対して、神が私に期待していることをハッキリとと知ることは難しい」と感じている人は、実は少なくないようです。確かに、私たちの限られた理解の中で、神のみこころの全てを知ることは難しいことです。また、隠されている部分があるのも事実です。しかし、聖書を開くときに、少なくとも「神のみこころ」についての「原則」を知ることが出来ます。例えば、「モーセの十戒」(出20:1-17)。また、イエス・キリストが人々に語られた「山上の説教」(マタイ5-7章)からも神が私たちに望まれることの原則を知ることが出来ます。

3)みこころを祈るイエスの模範・・・主の祈りは弟子たちの願いに応じて、イエスご自身が教えてくださった祈りです。そして、その祈りをイエス自身は十字架に架けられる前夜、あのゲッセマネの園で祈られました(マタイ26:36~42)。この「どうぞみこころのとおりをなさってください。」という祈りの言葉は、主の祈りの「みこころが・・・行なわれますように。」という祈りの言葉と、原文を見ますと全く同じ言葉で祈られています。ですから、私たちが「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」と祈るときに、その祈りは、言葉として教えられたイエスの祈りだけではなく、十字架を目前にたゲッセマネの祈りの中で、自身を神のみこころに完全に従わせたイエスの祈りにつながっているのです。このイエスの祈りこそが、主の祈りの唯一完全な模範です。私たちも同じ祈りを祈る者として、日々の歩みの中で、そこにある「神のみこころ」に心を向けながら、これに従うことが出来るよう、祈りに祈りを重ねる者となりたいと思います。

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