20170514 主の懲らしめ ヘブル12:4~11

1、父なる神の訓練・・・ウエストミンスター小教理問答の第一問は、神に造られた人間の主な目的について、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」と教えています。私たちの人生の主な目的は2つだけですが、それは簡単なことではありません。なぜならば、その時々にこの目的から目を逸らさせるような誘惑や試練があるからです。そこで、ヘブル書は信仰をもって生きる者たちの人生を「競争」にたとえて、「忍耐をもって走り続けようではありませんか。」と勧めているのです(12:1)。とはいえ、何の備えもなく「人生」という長い走路を走りきることはできません。そこで、神は主イエスを信じる信仰により「神の子」とされた者たちが、「いっさいの重荷とまとわりつく罪を捨てて」その競争を走りきることが出来るよう「訓練」を施さるというのです。

2、訓練の目的①・・・それでは、神が神の子とされた者を「訓練する」ことの目的は何でしょうか。第一の目的は、「ご自身(神)の聖さにあずからせる」(10)ことです。人間の父親は不完全です。良かれと思って子供に行う懲らしめも、ときに怒りや苛立ちの感情が入り込み、自分本位の懲らしめになることがあります。しかし、私たちの神は完全なお方であり、神が私たちを懲らしめるときに、そこには「ご自身の聖さにあずからせる」という目的があるのです。「聖」とは神のご性質(属性)の一つで、「罪と決して交わることのない」ことをあらわすものです。しかし、この神のご性質はイスラエル人にとって恐ろしい事柄でありました。何故ならば罪ある者が不用意に神に近づくとき、人は神の聖さに打たれて死ななければならないからです(出エジプト19:12)。ダビデ王の命令で「神の箱(契約の箱)」がアミナダブの家からエルサレムに運ばれた時、同行したアミナダブの子ウザは、牛車に乗せられて神の箱が、牛があばれて倒れそうになったとき、手を伸ばしてこれを支えました。しかし、この行為によって、「主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれたので、彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ。」(Ⅱサムエル6: 7)と聖書は記しています。これが、イエスが来られる以前の神と神の民の距離であり、主は或る人々をご自身の働きのために用いられますが、本質的に神の聖さと人の罪とは、決して交わることができないものなのです。しかし、神は私たちの罪の贖いのためにイエスをくださいました。主イエスの十字架の死によって私たちの罪を完全に贖われ、聖霊なるキリストはイエスを信じて生きる者の内に働いて、私たちをイエスの似たものとしてくださるのです。これが、「ご自身(神)の聖さにあずからせる」ということなのです。

3、訓練の目的②・・・神が神の子とされた者を「訓練する」ことのもう1つ目的は「平安な義の実を結ばせる」(11)ことです。しかし、「義の実を結ぶ」に至る過程にあったこの手紙の読み手たちは、悲しみを伴うような試練の中に置かれていたことを11節からは察することができます。自らを神と称するローマ皇帝に跪くことのなかった人々を支えものは信仰だけでした。しかし、そうした人々とても激しい迫害に耐え兼ねて、信仰に留まり続けること諦める誘惑があったわけです。しかし、そうした試練をも主はその御手のうちに治め、愛する者たちが義の実を結ぶための「訓練」の機会としていられるのだというのです。「平安な義の実」。平安という言葉は「シャローム」という言葉であり、私たちの人生の全ての領域に及ぶ神の祝福を指し示す言葉です。神の祝福は現実的であり、また具体的です。私たちの暮らしの中には、確かに「その時には喜ばしいものでない」ことがあります。しかし、神はそうした事柄の中で私たちをご自身の器として作り上げ、用いて、そこに関わる人々を祝福しようとしとられることを覚えたいと思います。

4、神はあなたを子として扱っておられる(7)・・・「訓練」、また「懲らしめ」が与えられていることは、神が私たちを子として扱っておられる「しるし」であると言います。逆に、こうした訓練や懲らしめに伴う試練や葛藤が無いとするならば、そうした人は「私生子であって、本当の子ではないのです」と8節には記されています。「私生子」それは、父親の知れない子供という意味です。そして、父親が知れないということは、当然ですが父親の物を受け継ぐことはできません。受けるべき信仰の試練を避け、神の御ことばではなくこの世に調子を合わせて生きるクリスチャンは、何処にぶつかることもありません。クリスチャンでない人から見ても物分かりのいい、ある意味で良い評判を得て生きることが出来るはずです。しかし、彼らが神の国を受け継ぐことが出来るのでしょうか。いや、そもそもそうした方々にとって、イエスの再臨とともにもたらされる神の国は、本当に生きる希望なのでしょうか。1世紀に生きた私たちの信仰の先輩たち。彼らが生きた時代とこの2017年の日本はでは、同じことを見つけ出すことに方が難しいかもしれません。しかし、主は私たちの暮らしの中で起こってくる、ささやかな試練を訓練として、私たち神の子として取り扱い、また私たちとともに、この人生を生きてくださる神なのです。

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:1~5)

 

20170507 みこころを求める心 マタイ6:9~13

1)天と地の違いはなにか・・・この第三の祈りは、「みこころが行われる2つの場所・領域」として「天」と「地」を挙げています。「地」、つまり私たちが暮らしているこの世界で「みこころが行われる」ためのモデルとして、「天」が挙げられているわけですが、なぜ、私たちの暮らすこの世界では「神のみこころ」が、天で行われるように行われないのでしょうか?また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、{また彼らの神となり、}彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである(黙示録21: 1~4)。死、悲しみ、叫び、苦しみ、これらは、いずれも罪によってもたらされるものであり、神のみこころが何にも妨げられることなく完全に行われる「天」には罪がないのです。つまり、私たち人間の罪が、この地で神の御心が行われることを妨げるものなのです。

2)「神のみこころ」を妨げる罪の問題・・・確かに私たちは、毎日の暮らしの中で明らかに「みこころ」ではない多くの事柄に関わって生きています。新聞やテレビ、ネットのニュースを通して、私たちは信じがたいような悲劇や事件が毎日のように見聞きします。それ自体恐ろしいことです。しかし、もっと恐ろしいことは、こうした現実に対して私たちが無関心になってしまうことかもしれません。 イエスが弟子たちに「みこころが地で行われますように」と祈るよう教えられたことは、それ自体、イエスが私たちの生きるこの世界に特別な関心を持っておられることを明らかにしています。神のみこころは天では行われていますが、地では行われてはいないのです。こうした現実に私たちが無関心でいるとするならば、それこそが「みこころ」ではありません。何故ならば、この世界のさまざまな問題は根源的には人間の罪によるものであるからです。しかし、神を離れて、「自分」を中心に生きたいと願う人の罪が働きを解決する力は私たちにはありません。だから、私たちはみこころの実現を切に求めて「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と祈る必要があるのでしょう。

3)みこころを祈る者から広がる神の国・・・それでは、人間の罪が妨げとなり、「みこころが天で行なわれるようには、この地で行なわれていない。」とうい現実に目が向くときに、みこころを求めて祈る私たちには何が出来るのでしょうか。それは「福音をつたえる」ということです。私たちには、罪の問題を完全に解決することのできる、ただ1つの鍵ともいえる「福音」が伝えられています。イエスは全ての人の罪を負って十字架で死なれ、3日目に死に打ち勝って復活されました、この福音を私たちは受け派遣されてゆくのです。使徒パウロは「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16)と告白しているように、福音こそが人を救いに導くのであり、神は私たちに求められているのは「伝える」ということなのです(ローマ10:13~17)。イエスはご自身について「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。」(ヨハネ6:36)と語られました。私たちも主に送り出されて生きるそれぞれの場所で、「みこころが地で、そして私の歩みに中で行なわれますように」と心から祈り、また、この祈りによってお互いに結ばれて、今週も主にみ前に新たな歩みを、共に始めてゆきたいと思います。

20170430 みこころが地でも行われますように マタイ6:9~13

1)「みこころ」とは何か・・・私たちは、この「みこころ」とは何ということでしばしば迷いを感じます。ですから、この「みこころ」が何かを具体的に知ることは重要な課題と言えるでしょう。主の祈りにおいて「みこころ」と訳されている言葉は「意思」(θέλημά )という言葉が訳されたもので、直訳すると「神のご意志」ということになります。

神の意志① 神のご計画・・・「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」(エペソ1:5)この「みこころ」は神のご意思として既に定められてものであって、たとえ状況や環境が如何に変化したとしても、何においても妨げられることのない「みこころ」ということです。旧約聖書には神の民とされたイスラエルの度重なる神への背きの記録が記されています。しかし、罪深い人間の愚かな歩みによっても、神の救いの計画が妨げられることはありませんでした。私たちはどうでしょうか。私たちも失敗をします。神の栄光どころか、人の躓きとなっているのではないかと心配になるのが私たちの現実かもしれません。しかし、「みこころ」という言葉で示された、神の救いの計画は変わることはないのです。

神の意志② 神の民への期待・・・「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)ここでの「神のみこころ」とは、神が神を信じて生きる人々に「望まれること」、あるいは「期待されること」としての「みこころ」です。ある意味で、この「みこころ」を選ぶ判断は、私たちの自由に委ねられいます。ですから、ここでパウロは「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」と勧めているわけです。

2)どうすれば「みこころ」が分かるのか・・・この神さまの私に対する「みこころ」ということを、皆さんはどのくらい意識して生活しているでしょうか。「毎日の暮らしの中で出遭う具体的な課題に対して、神が私に期待していることをハッキリとと知ることは難しい」と感じている人は、実は少なくないようです。確かに、私たちの限られた理解の中で、神のみこころの全てを知ることは難しいことです。また、隠されている部分があるのも事実です。しかし、聖書を開くときに、少なくとも「神のみこころ」についての「原則」を知ることが出来ます。例えば、「モーセの十戒」(出20:1-17)。また、イエス・キリストが人々に語られた「山上の説教」(マタイ5-7章)からも神が私たちに望まれることの原則を知ることが出来ます。

3)みこころを祈るイエスの模範・・・主の祈りは弟子たちの願いに応じて、イエスご自身が教えてくださった祈りです。そして、その祈りをイエス自身は十字架に架けられる前夜、あのゲッセマネの園で祈られました(マタイ26:36~42)。この「どうぞみこころのとおりをなさってください。」という祈りの言葉は、主の祈りの「みこころが・・・行なわれますように。」という祈りの言葉と、原文を見ますと全く同じ言葉で祈られています。ですから、私たちが「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」と祈るときに、その祈りは、言葉として教えられたイエスの祈りだけではなく、十字架を目前にたゲッセマネの祈りの中で、自身を神のみこころに完全に従わせたイエスの祈りにつながっているのです。このイエスの祈りこそが、主の祈りの唯一完全な模範です。私たちも同じ祈りを祈る者として、日々の歩みの中で、そこにある「神のみこころ」に心を向けながら、これに従うことが出来るよう、祈りに祈りを重ねる者となりたいと思います。