20170409 完了した ヨハネ19:28~30

1)「渇く」・・・イエスは金曜日の朝9時に十字架に掛けられ、午後3時に息を引き取られますが、この間に7つの言葉を語られます。「わたしは渇く」という言葉は第五番目の言葉、この後見ます「完了した」は六番目の言葉です。両手首と重ねた足の甲を釘で打たれ十字架に掛けられたイエスは、十字架に至る裁きの座では鞭打たれ、また刑場に向かう道を、自身が架けられる木を負って歩みました。「わたしは渇く」と言われたことには、確かに、このような肉体的な苦しみによるものと言えるかもしれません。しかし、ヨハネは、イエスの渇きは単なる肉体的な苦痛によるものではなく、聖書の預言が成就しての神の裁機に伴う「渇き」であると記しています。詩篇22篇は「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」という言葉ではじまります。ご存知のように、これはイエスが十字架上で語られた第4番目の言葉ですが、16節では「私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。」という事が語られています。主イエスは私たちの罪の呪いを身代わりに負われました。そのように私たちを神の御もとに取り戻してくださったイエスは神に捨てられたのです。

2)酸いぶどう主・・・イエスが渇くと仰せられると、ローマ兵士は「酸いぶどう酒を含んだ海綿」をヒソプの枝につけて、イエスの口元に差し出しました。これは詩篇69篇21節の「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。」という預言のことばが成就したものです。しばしば、この「酸いぶどう酒」が、マルコ15章26節の「没薬を混ぜたぶどう酒」と混同されることがありますが、痛みを和らげる鎮痛のための「ぶどう酒」をイエスは受けることはありませんでした。兵士がイエスの口元にぶどう酒を差し出した行為は、イエスの渇きを潤そうとする行為におもえます。しかし、細いヒソプの茎に、ぶどう酒を含ませた海綿をつけるならば、不安定な穂先の海面からイエスがぶどう酒を口に含むことは容易なことではありません。こうした様子をあざけり楽む行為として兵士たちは「ぶどう酒」を差し出したのです。

3)完了した・・・「酸いぶどう酒」を受けられたイエスは、その後「完了した」といって息を引き取られました。罪人の救いのための全ての業がここに完了した。人となって世に来られたイエスの目的が完了したと見ることができますが、その目的は「神の愛が明らかにされる」というところにあると、ローマ5:6~8でパウロは記しています。イエスご自身についても、ヨハネ13:1をみると「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」とありますが、この「残るところなく」という言葉は「完了した」という言葉の原型である、「目的」とも訳されることばなのです。

4)十字架の躓きを通して・・・しかし弟子たちは、イエスの十字架を通して、みなイエスに対す愛の躓きを経験しました。ペテロは常に12弟子を代表する存在でありましたが、このイエスに対する躓きにおいても他の弟子たちを代表するようにして、イエスの裁きが行われた大祭司の庭で、三度にわたってイエスとの関りを否認しました。こうしたペテロに、復活されたイエスは「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」(ヨハネ21:15)と尋ねられます。この問いにペテロは、「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」と答えています。イエスの十字架と復活を知る以前のペテロは、愛によって自分を誇るものでした。しかし、十字架に躓いたペテロは、自分こそ最も罪深い、最もイエスの赦しを必要としていることを知る者とされたのです。このようなペテロに主は「わたしの羊を飼いなさい。」(15.16.17)とご自身の羊を委ねておられるのです。

5)愛を完成してくださる神・・・「完了した」という言葉は、「成し遂げる」と読み替えることが出来る言葉です。ペテロの愛を、そして私たちの愛を完成してくださるのは神さまご自身なのです。愛のない自分に腹が立つ、あるいは落胆することもあるかもしれません。しかし、十字架によってその愛を余すところなく示された神は、私たちのうちで愛を完成してくださるお方でもあるのです。主は、私たち心から神を愛し、また隣人を心から愛し、互いの足を洗うように仕えることが出来るよう、私たちとともに生きてくださる方のです。

 

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