20170423 御国と永遠の望み マタイ6:9~13

1)キリストの来臨と再臨・・・復活から40日目にイエスは弟子たち目前で天に昇られたましたが、この時、弟子たちの傍らに現れた天使は、「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」とイエスが再臨を語ります(使徒の働き1章)。つまり私たちは、私たちの罪の贖い(赦し)のために来られたイエスの来臨と、再び来られるイエスの再臨との間に生きていることを聖書は明らかにしています。

2)イエスの再臨と神の国の到来・・・再臨の目的について、ヘブル9:27-28には「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」と記されています。イエスを信じる信仰により罪赦された者には、神の子とされる特権が与えられています(ヨハネ1:12)。このことを「成し遂げる」ためにイエスは再び来られます。これをヘブル書は「彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られる」と記しているのです。

3)御国と永遠の望み・・・このように、神の国の相続が約束された私たちには、この約束がもたらす希望を抱いて私たちは生きているでしょうか。使徒パウロはこのキリストの再臨と共に到来する御国を片時も忘れることはありませんでした。彼はコロサイ書の中に次のようなことを記しています。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」(2:24)。これは御国の相続を望として今与えられた働きに誠実に望みなさいと言う勧めです。信仰を告白することにより多くのものを失わなければならなかった迫害の時代の中で、パウロをはじめとする主にある兄弟姉妹を支えていたものは御国の相続への望みであったのです。

4)まとめ・・・聖書の最後の書である黙示録、その黙示録の最後はこのような言葉で結ばれています。「これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。」。御国と永遠の望みという事を今日は共に考えましたが、実のところ、教会の歴史を振り返ると、キリストの再臨をめぐる誤解によって教会が混乱するということもあり、あまり再臨や神の国の到来ということが語られないということがあります。しかし、私たちは実際にこの希望に立つべきでしょう。何故ならば、御ことばに生きるキリスト者の力の源泉はここにあり、また、宣教の最終的な意義はこの希望に裏付けられるものだからです。

20170416 最も大切なもの Ⅰコリント15:1~11

1)イエスの死と復活を信じる信仰・・・コリント教会を含め、すべてのキリスト教会は、イエスの十字架と復活を信じる信仰を基礎として建て上げられなければなりません。つまり、単なる施設という味ではなく、教会を構成する人々(クリスチャン)は、それぞれに異なる賜物と働きを持ちながらも、キリストの十字架と復活を信じる信仰を、「最も大切なこと」として共有している、これがキリストの教会です。コリントの教会は、パウロの第二回伝道旅行において生まれた教会です。『恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから』という神のみことばを受けて、パウロは一年半にわたってこの街に滞在して、神みことばを教えました(使徒18:8~11)。ところが、パウロがコリントを離れて数年もしないうちに、教会の中に「死者の復活はない」と主張する者たちあらわれました。

2)死者の復活の否定・・・こうした主張は、1~4世にコリントを含むギリシャ文化の影響下にあった地域で広まったグノーシス主義という宗教思想の影響を受けた者によるものでした。「精神や霊的な存在は善、物質や肉体は悪」という二元論的な思想に影響された人々は、クリスチャンはイエスを信じる信仰において、既に霊的に復活を経験しており、将来においてイエスの復活に与り死者がよみがえることはないと教えたのです。ですからパウロは、15:1~2で、既に述べ伝えた福音を、もう一度述べ伝えましょう、と言いつつ特にイエスの復活という事に力点を置きながら、コリントの人々に福音の再確認を促しているのです。

3)最も大切なこと・・・キリストの復活の根拠として、パウロは「聖書の記述」と「復活の目撃者たちの存在」をあげていますが、この目撃者たちの最後に、パウロは自分自信をあげています。自分のことですから、彼は少し補足を加えていますが、そこには「そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(15:8-10)と告白されています。真理に目が閉ざされたパウロの熱心は、その告白の通り、教会への迫害、イエスへの敵対という形で表されてゆきます。このように、神の敵対者として歩むパウロに対して、神の裁きではなく恵みによって彼をとらえ、他の誰よりも多く神に仕える者としてくださいました。この事実をパウロは「恵み」にという言葉で言い表しています。自分の罪に対する深い認識と、神の恵みに対する感謝とは、キリストの死と復活こそが「最もたいせつなこと」という価値観を生すものとなりました。

まとめ・・・「最も大切なこと」と言われて頭に浮かぶものは何でしょうか。家族や仕事ということでしょうか、勉強や友達ということも大切なことでしょう。しかし「最も」ということで考えるならば、そこで、素直に頭に浮かぶものが本当に「最も大切なこと」と言えるのか考えてみる必要があります。この「最も大切なこと」という言葉には、文字通りには「第一のもの」という意味があります。主イエスは「神の国とその義とを第一に求めなさい」と言われましたが、この「第一に」も「最も大切なこと」も同じ言葉から来ています。福音、とりわけ、イエス・キリストの十字架の死と復活こそ、あらゆることの中で第一にされなければならないものです。それは、福音が罪の赦しと真のいのちを告げ知らせる、唯一の良い知らせがここにあるからです。

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(Ⅰコリント15:55~58)

20170409 完了した ヨハネ19:28~30

1)「渇く」・・・イエスは金曜日の朝9時に十字架に掛けられ、午後3時に息を引き取られますが、この間に7つの言葉を語られます。「わたしは渇く」という言葉は第五番目の言葉、この後見ます「完了した」は六番目の言葉です。両手首と重ねた足の甲を釘で打たれ十字架に掛けられたイエスは、十字架に至る裁きの座では鞭打たれ、また刑場に向かう道を、自身が架けられる木を負って歩みました。「わたしは渇く」と言われたことには、確かに、このような肉体的な苦しみによるものと言えるかもしれません。しかし、ヨハネは、イエスの渇きは単なる肉体的な苦痛によるものではなく、聖書の預言が成就しての神の裁機に伴う「渇き」であると記しています。詩篇22篇は「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」という言葉ではじまります。ご存知のように、これはイエスが十字架上で語られた第4番目の言葉ですが、16節では「私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。」という事が語られています。主イエスは私たちの罪の呪いを身代わりに負われました。そのように私たちを神の御もとに取り戻してくださったイエスは神に捨てられたのです。

2)酸いぶどう主・・・イエスが渇くと仰せられると、ローマ兵士は「酸いぶどう酒を含んだ海綿」をヒソプの枝につけて、イエスの口元に差し出しました。これは詩篇69篇21節の「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました。」という預言のことばが成就したものです。しばしば、この「酸いぶどう酒」が、マルコ15章26節の「没薬を混ぜたぶどう酒」と混同されることがありますが、痛みを和らげる鎮痛のための「ぶどう酒」をイエスは受けることはありませんでした。兵士がイエスの口元にぶどう酒を差し出した行為は、イエスの渇きを潤そうとする行為におもえます。しかし、細いヒソプの茎に、ぶどう酒を含ませた海綿をつけるならば、不安定な穂先の海面からイエスがぶどう酒を口に含むことは容易なことではありません。こうした様子をあざけり楽む行為として兵士たちは「ぶどう酒」を差し出したのです。

3)完了した・・・「酸いぶどう酒」を受けられたイエスは、その後「完了した」といって息を引き取られました。罪人の救いのための全ての業がここに完了した。人となって世に来られたイエスの目的が完了したと見ることができますが、その目的は「神の愛が明らかにされる」というところにあると、ローマ5:6~8でパウロは記しています。イエスご自身についても、ヨハネ13:1をみると「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」とありますが、この「残るところなく」という言葉は「完了した」という言葉の原型である、「目的」とも訳されることばなのです。

4)十字架の躓きを通して・・・しかし弟子たちは、イエスの十字架を通して、みなイエスに対す愛の躓きを経験しました。ペテロは常に12弟子を代表する存在でありましたが、このイエスに対する躓きにおいても他の弟子たちを代表するようにして、イエスの裁きが行われた大祭司の庭で、三度にわたってイエスとの関りを否認しました。こうしたペテロに、復活されたイエスは「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」(ヨハネ21:15)と尋ねられます。この問いにペテロは、「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」と答えています。イエスの十字架と復活を知る以前のペテロは、愛によって自分を誇るものでした。しかし、十字架に躓いたペテロは、自分こそ最も罪深い、最もイエスの赦しを必要としていることを知る者とされたのです。このようなペテロに主は「わたしの羊を飼いなさい。」(15.16.17)とご自身の羊を委ねておられるのです。

5)愛を完成してくださる神・・・「完了した」という言葉は、「成し遂げる」と読み替えることが出来る言葉です。ペテロの愛を、そして私たちの愛を完成してくださるのは神さまご自身なのです。愛のない自分に腹が立つ、あるいは落胆することもあるかもしれません。しかし、十字架によってその愛を余すところなく示された神は、私たちのうちで愛を完成してくださるお方でもあるのです。主は、私たち心から神を愛し、また隣人を心から愛し、互いの足を洗うように仕えることが出来るよう、私たちとともに生きてくださる方のです。