20170312 天にいます私たちの父よ① マタイ6:5~15

1)「父よ」という呼びかけ イエスご自身は神のひとり子でありますから、祈りの中で神を「父」と呼ぶことは当然です。しかし、イエスは弟子たちも祈るときにも「私たちの父よ」と神を呼ぶように教えられました。この「父」と訳される言葉はアラム語の「アバ」という言葉で、小さな子供の父親を呼ぶときの言葉ですが、実は、ユダヤ人が神を父と呼ぶような親密な関係を表す記録は、旧約聖書にはほとんど見られません。ですから、弟子たちにとって「父よ」という呼びかけは、素直に神への信頼を感じる言葉というよりも、違和感を感じることばであったかもしれません。しかし、このような私と神と関りを築き育くまれるのは「聖霊」によるものであると聖書は教えます。「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。」(ガラテヤ4:6~7)

2)「父」の意味すものも マタイの福音書7章7~8節には、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」という祈りに関する教えがあります。ここでイエスは人間の親を例に挙げて、「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。」(9-10)と言われ、神が描いておられる父・親の姿の原則を、「悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与える」(11)と教えており、この譬えを受けて「とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」と教えるのです。「父」という言葉をもってイエスが教える神の第一の姿は、子供の必要を満たしてくださるお方というものです。

また、イエスは十字架にかけられす前夜、ゲッセマネの園で祈られました。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(14:36)。ここでイエスは神を「アバ、父よ」と呼び、「あなたにおできにならないことはありません。」と神への信頼を述べていますが、祈りは「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」という言葉で結ばれています。イエスの「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」という願いは聞き届けられませんでした。しかし、「あなたにおできにならないことはありません。」という父なる神への信頼と、「わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」というイエスは父なる神への従順は揺るぐことはなかったのです。「父」という言葉をもってイエスが教える神の第二の姿は、最善をもって全ても治めるお方であり、このお方に対する子の「従順」を示しています。

3)神への信頼と服従を培うために 「父よ」という呼びかけが、神への信頼は従順あらわすことを確認しましたが、ともすると、この呼びかけは、さして意味のない「祈りの枕詞」のようにしか受け止められないことがあります。こうした過ちに陥らないためにはどうしたらよいのでしょう。第一に、「聞く」という祈りの時間(清聴・デボーション)を大切にしてください。「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)。祈りは神との交わりです。自分のことだけ話して、相手の言うことは一向に聞かない、言うだけ言って満足してしまう人がありますが、これは良い交わりとは言いません。神は皆さんがご自身を「知る」ことを望んであられます。この「知る」という言葉を聖書は「交わり」を意味するものなのです。

もう一つは「神のみことばを聞いて生きる」ということです。神への信頼と服従は、先ほど申し上げた通りに聖霊の助けの中で育まれるものです。しかし、それは一朝一夕に築き上げられるものではありません。日毎に神の御ことばに聞き、これに生きることを願う中で育まれてゆくものと言えるでしょう。マタイ7章でイエスは、岩の上に家を建てた賢い人と、砂の上に家を建てた愚かな人の譬え話していますが、イエスは賢い人については「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」といい、愚かな人については、「また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。」と教えています(7:24-27)。

真剣に神の御ことばに従って生きること願うときに、神を知らない人々や地域での関り、また職場や学校での関りの中で葛藤を感じます。大小の差はありますが、私たちも信仰の試練を味わいながら生きています。そこで主が私たちの求めらておられるのは忍耐です。安易に妥協するでなく、いたずらに争うのでもなく、そこにある主の最善を信じて静かに耐え忍ぶ中で、クリスチャンはイエスに似たものとなってゆくのでしょう。これが私たちの希望です。「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(ローマ5:3-4)。そして、「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(5:5)と聖書は教えています。

「天にいます私たちの父よ」。この呼びかけを単なる祈りの枕詞としないために、私たちは、私たちの罪ために御子イエスを死に渡された神を、祈りことばを口にする前に(ほんの少しの時間でも)思い起こしましょう。そして、今も、聖霊なるキリストにより神の愛が私たちの心に注がれていることを覚えて、心から神を「天にいます私たちの父よ」と呼ぶ者でありたいと思います。

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