20170319 天にいます私たちの父よ② マタイ6:9~13

1)天におられる父よ・・・私たちが父と呼ぶ神は「天におられる」とイエスは教えています。しかし、天というのはどこなのでしょう? 使徒1章に記されている、イエス昇天の記録では、「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。」とあります。方向としては「上」で間違いはないようです。しかし、イエスは神が「天」と呼ばれる特定の場所・領域に留まっていることを示すために、「天に」ということばを付け加えたわけではありません。神は「特定の場所」にとどめておくことのできるお方ではないのです。とすると、「天に」ということばが加えられた理由はどこにあるのでしょう? その一つの理由は「地上の父」との区別ということが挙げられるでしょう。確かにイエスは、「悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与える」(マタイ7:11)という、神が描いておられる父・親の姿の原則を示しておられます。しかし、現実には、罪によって神との正しい関りが絶たれた地上の父は、最も身近で大切にしなければならない家族、そした子どもに対しても、正しく関わることが出来ないことがあります。ですから、「地上にある父親の姿に」に、「天におられる父なる神」の姿を重ね時に、場合によっては、神を正しく知ることることの妨げとなることもあるのです。

2)私たちの父よ・・・「天にいます私たちの父よ」という呼びかけですが、神への認識だけで言えば「天にいます父よ」だけでも十分に通じます。しかしイエスは、ここに「私たちの」という言葉を加えています。無くても理解できる言葉が、あえて加えられるとすれば、そこには重要な意味があると見るべきでしょう。この「私の」という言葉が示すものは「関係」です。旧約聖書はこの関係を表すことばを、しばしば「知る」とやくしています。知的に「神の存在」を研究し理解していると自負していたとしても、私と神との関係が正しく守られていないとするならば、本当の意味で「神を知る」ということが出来ているとは言えないのです。私の神はこの世界の全てを創造された神であり、私たちの罪に赦しをあたえるために、ご自身のひとり子をさえ惜しむことを与えてくださった愛の神です。そして、私たちもこのお方を愛して祈るのです。

 

20170312 天にいます私たちの父よ① マタイ6:5~15

1)「父よ」という呼びかけ イエスご自身は神のひとり子でありますから、祈りの中で神を「父」と呼ぶことは当然です。しかし、イエスは弟子たちも祈るときにも「私たちの父よ」と神を呼ぶように教えられました。この「父」と訳される言葉はアラム語の「アバ」という言葉で、小さな子供の父親を呼ぶときの言葉ですが、実は、ユダヤ人が神を父と呼ぶような親密な関係を表す記録は、旧約聖書にはほとんど見られません。ですから、弟子たちにとって「父よ」という呼びかけは、素直に神への信頼を感じる言葉というよりも、違和感を感じることばであったかもしれません。しかし、このような私と神と関りを築き育くまれるのは「聖霊」によるものであると聖書は教えます。「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。」(ガラテヤ4:6~7)

2)「父」の意味すものも マタイの福音書7章7~8節には、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」という祈りに関する教えがあります。ここでイエスは人間の親を例に挙げて、「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。」(9-10)と言われ、神が描いておられる父・親の姿の原則を、「悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与える」(11)と教えており、この譬えを受けて「とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」と教えるのです。「父」という言葉をもってイエスが教える神の第一の姿は、子供の必要を満たしてくださるお方というものです。

また、イエスは十字架にかけられす前夜、ゲッセマネの園で祈られました。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(14:36)。ここでイエスは神を「アバ、父よ」と呼び、「あなたにおできにならないことはありません。」と神への信頼を述べていますが、祈りは「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」という言葉で結ばれています。イエスの「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」という願いは聞き届けられませんでした。しかし、「あなたにおできにならないことはありません。」という父なる神への信頼と、「わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」というイエスは父なる神への従順は揺るぐことはなかったのです。「父」という言葉をもってイエスが教える神の第二の姿は、最善をもって全ても治めるお方であり、このお方に対する子の「従順」を示しています。

3)神への信頼と服従を培うために 「父よ」という呼びかけが、神への信頼は従順あらわすことを確認しましたが、ともすると、この呼びかけは、さして意味のない「祈りの枕詞」のようにしか受け止められないことがあります。こうした過ちに陥らないためにはどうしたらよいのでしょう。第一に、「聞く」という祈りの時間(清聴・デボーション)を大切にしてください。「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)。祈りは神との交わりです。自分のことだけ話して、相手の言うことは一向に聞かない、言うだけ言って満足してしまう人がありますが、これは良い交わりとは言いません。神は皆さんがご自身を「知る」ことを望んであられます。この「知る」という言葉を聖書は「交わり」を意味するものなのです。

もう一つは「神のみことばを聞いて生きる」ということです。神への信頼と服従は、先ほど申し上げた通りに聖霊の助けの中で育まれるものです。しかし、それは一朝一夕に築き上げられるものではありません。日毎に神の御ことばに聞き、これに生きることを願う中で育まれてゆくものと言えるでしょう。マタイ7章でイエスは、岩の上に家を建てた賢い人と、砂の上に家を建てた愚かな人の譬え話していますが、イエスは賢い人については「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」といい、愚かな人については、「また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。」と教えています(7:24-27)。

真剣に神の御ことばに従って生きること願うときに、神を知らない人々や地域での関り、また職場や学校での関りの中で葛藤を感じます。大小の差はありますが、私たちも信仰の試練を味わいながら生きています。そこで主が私たちの求めらておられるのは忍耐です。安易に妥協するでなく、いたずらに争うのでもなく、そこにある主の最善を信じて静かに耐え忍ぶ中で、クリスチャンはイエスに似たものとなってゆくのでしょう。これが私たちの希望です。「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(ローマ5:3-4)。そして、「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(5:5)と聖書は教えています。

「天にいます私たちの父よ」。この呼びかけを単なる祈りの枕詞としないために、私たちは、私たちの罪ために御子イエスを死に渡された神を、祈りことばを口にする前に(ほんの少しの時間でも)思い起こしましょう。そして、今も、聖霊なるキリストにより神の愛が私たちの心に注がれていることを覚えて、心から神を「天にいます私たちの父よ」と呼ぶ者でありたいと思います。

20170305 あなたの父に祈りなさい マタイ6:5~15

主の祈りは福音書においては、今日の聖書個所であるマタイ6章の他に、ルカ11章にも記されていますが、今日はまずマタイの福音書から、イエスがこの祈りを教えるに至った経緯を見たいと思います。

1)偽善的な信仰に対する警告(1~4・5~6・16~18節) 祈りということについて、今日の個所でイエスは2つの誤りを教えていますが、その前後の個所では共通する問題が語られています。6章の冒頭に「見せかけの施しへの警告」(1~4)。主の祈りの教えの後に、「見せかけの断食への警告」(16~18)。これらは、いずれもユダヤ人にとって大切な宗教的な義務でした。こうした信仰に関わる大切な行為が、自分の名誉を求めるために行われる危険をイエスは指摘しています。

2)祈りに関する警告(5~9) こうしたことに挟まれるようにして「祈りに関する教え」が記されていますが、イエスは祈りについても、まず「見せかけの祈り」に関する警告を弟子たちに与えています(5~8)。それは、祈る心が神に向けられずに、周囲にいて祈りを聞いている人々の反応に関心が向けられる場合です。「私の祈りを聞いた人は私をどう思うだろうか」と、祈りの対象である神よりも、祈った結果人々が自分をどう評価するかという点に主な関心が向けられる。また、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」という注意を与えています。同じ言葉を繰り返し、こうした行為の蓄積が祈りの答えにつながる、という「祈りの行為」そのものに焦点があてられた祈りをイエスは「異邦人のように」と呼んで傾向を与えています。

3)あなたがたの父なる神は これらの間違った祈りの姿勢は、根本的なところでは「祈りの対象である神が意識されていない」という部分で共通した問題を持っています。そこで、イエスは弟子たちに、「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」と、あなた方に対して神がどのようなお方であるかを教えておられるのです。神は私たちが祝福を求める先に、私たちを祝福しようと待っていられる神です。こうした神の私たちに対する愛を知るときに、私たちはどのように祈るべきなのでしょうか。

イエスは「だから、こう祈りなさい」と祈りを教えてくださいました。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』[国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。](マタイ6:9~13)