20170122 あなたの神が王となる イザヤ52:3~10

本年の年間聖句は、ローマ人への手紙10章15節から「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱなことでしょう」という聖句が与えられています。この聖句に至る文脈をかいつまんで説明するならば、①「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるのか」(10:15)、②「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるのか」(10:14)、③「聞いたことのない方を、どうして信じることができるのか」(10:14)、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(13)のだが、④「信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるのか」(10:14)、であるから、福音を伝えるため遣わされてゆく者さんの足を、神は「立派な足だ」と認めてくださるのです。

1)異邦人の手に渡されたイスラエル 「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱなことでしょう」という聖句は、旧約聖書のイザヤ書52章7節の言葉が引用されたものです。この時代、イスラエルは王位継承問題で南北に分裂してゆきますが、後に北王国はアッシリヤによって滅ぼされ、南王国もまたアッシリヤに隷属するように存続することになります。北王国の滅亡とアッシリアの脅威は、南王国にとって目の前にある具体的な問題でした。しかしこうした問題は、神を離れその御ことばに聞くことも従うこともない神の民に対する、戒めであり裁きであることをイザヤは語り続けるのです(イザヤ51:17)。確かに 罪や問題を指摘されることは気持ちのいいものではありません。しかし、『きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはいけない。』」(へブル3:13~15)とある通りに、神か祈りに内に御ことば(聖書)を通して、私の罪に対する憂いを示されるならば、私たちは心を頑なにしてはならないのです。

2)あなたがたは・・・買い戻される 預言者を通して語られた神の警告を侮り、これに聞くことも従うこともないイスラエルは、「主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。」と51章17節に記されています。彼らは「滅亡と破滅、ききんと剣」によって、網にかかった大カモシカのように気を失い倒れる、それは、主の憤りと神のとがめが満ちているからだ」と、非常に厳しい神の裁きが語られます。しかし、これに続く所で主が語られることがこれです。「あなたの主、ご自分の民を弁護するあなたの神、主は、こう仰せられる。『見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない。』」(51:22)。この回復の約束が52章2節まで語られ、今日の個所につながります。ですから、ここで云われる「良い知らせ」とは、一言でいえば「回復の約束」ということです。4節にエジプトとアッシリヤの名前が見られます。この2つの国はイスラエルに対して神を侮る異国を代表する国です。たとえば、出エジプトにおいて、エジプトの王パロは「主とはいったい何者か。」(出5:2)と神を侮りました。また、ヒゼキヤが「主は必ずわれわれ必ず救い出してくださる」と言って人々を励ましたとき、アッシリヤの将軍ラブ・シャケは、「だれか自分の国をアッシリヤの王の手から救い出しただろうか。・・・主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか。」(イザヤ36:18-20)」と言ってイスラエルの神を侮ります。しかし、神ご自身がエジプトやアッシリヤの苦しみからご自分の民を買い戻す、つまり解放すると3節には述べられています。

3)あなたの神が王となる 回復の約束が良い知らせと申し上げましたが、この回復は神との正しい関係の回復によってもたらされるものであり、「あなたの神が王となる」ということが、良い知らせの本質であると言えます。しかし、「あなたの神が王となる」とはどういうことでしょう。「王となる」という言葉は、「統治する」と言う言葉です。神が神の民の歩みを導きこれを守ってくださると読み取ることが出来ます。考えてみると、イスラエルの人々神への信頼ということでは、この後も失敗を繰り返します。彼らの不信仰が原因となり、度々他国の侵略に脅かされたあげく、バビロニアによって神殿は焼かれ捕囚されてしまいます。しかし、神の忍耐はと憐みは尽きることはなく、キリストとして来られたイエスの十字架と復活によって、私たちを罪の呪いから解放してくださったのです(イザヤ53章)。

 

20170115 主の忍耐と救い Ⅱペテロ3:8~13

1)ペテロが手紙を書いた理由 主イエスの福音が述べ伝えられ、各地に主の教会が建てられて行く時代になると、主イエスが語られた真理に逆らい、偽りの教えを語る者たちが現れゆきます。こうした者たちの中にキリストの再臨と神の裁きを否定し、享楽主義的な教え、つまり、快楽を追求することを人生最上の目的と教える者がありました。また、そうした教えに影響されて敬虔な生活から離れて行く者たちがありました。こうした人々がキリストの言葉の記憶を呼びさませ、「純真な心を奮い立たせるため」、更に、「預言者と使徒たちが語った、イエスの命令とを思い起こさせるため」にこの手紙を書いたとペテロは記しています。

2)裁きと神の忍耐 こうした人々は父祖たちが亡くなってから多くの時間が流れたが、この間に神さまが直接に人を裁くような劇的なことは無かったではないかといいますが、これに対してペテロは、ユダヤ人ならば誰でも知っている二つの事柄を提示し彼らの考えの間違いを示します。1つはこの天と地は神のことばによって創造されたという事実(創世記1章)。もう一つは、ノアの洪水によって神は不敬虔な世を滅ぼされたという事実(創世記6~9章))です。「神の裁き」という言葉は人の心に恐れを生じさせます。そして、この恐れが人の生き方を敬虔なものとすることもあるでしょう。しかし、ペテロは救われた者が敬虔な生活を目指すのは、そにような単純な恐れによるのではないと言います。イエスの再臨は確かに神の裁きの始まりです。しかし、主が来られることを信じ待ち望む者にとっては、「正義の住む新しい天と新しい地」がもたらされる時であるというのです(黙示録21章1~4節)。

3)神の忍耐と救い この時代の教会に於いて、ある者は「キリストの来臨の約束はどこにあるのか」と主を待ち望む者を嘲り、またある人は「主の来臨がおそい」と考えていたことが手紙の内容から伺えます。こうした者たちの誤った考えに対してペテロは、旧約聖書・詩篇90:4の聖句を引用しつつ、主の来臨が遅いと思えるとすれば、それは主が、「あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」という理由を明らかにしています。ここで「あなたがた」と呼ばれている人々とは、1節に「愛する人たち」と言われる人々、つまり、偽りの教えに揺らされて、主の真理に対する記憶も、純真な心も忘れがちな人たちです。彼らが再び神の教えに心が開かれ、純真な心を奮い立たせ、敬虔な生活をもって主の来臨に備えることが出来るように、神は忍耐をもって悔い改めを待っておられるというのです。15節でもペテロは「主の忍耐は救いであると考えなさい」と勧めていますが、主は私たちが過ちに留まり続けることなく悔い改めに進むことよう、深い憐みと忍耐をもって私たちを待っていてくださるということを心に刻んで、新たな歩みをスタートしましょう。。