20161106 救いの条件 使徒15:1~5

アンテオケ教会において異邦人に対して、ユダヤから下ってきた兄弟たちが、「『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と教えていた。」ということにより、パウロ・バルナバとの間の、「激しい対立と論争が生じた」と2節にあります。この対立と論争は、両者の間で解決を図ることはできず、パウロとバルナバとその仲間の幾人かが、この件について使徒や長老たちと協議するためにエルサレム教会に向かいましたが、エルサレム教会でもパリサイ派の者で信者になった人々は、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と主張しました。「べきである」という言葉によって張り巡らされたユダヤ人の価値基準をを、救いの絶対的な条件として異邦人に求める人々の姿に、神の恵みのもとに置かれながらも、「心の頑なさ(うなじのこわさ)」から自由にならない者の姿を見ますが、これは、私たちとも無関係な事柄ではありません。「クリスチャンはこうあるべき」というイメージの枠に囲まれ、自分にも隣人にも「べきである」という価値基準を認めることはないでしょうか? 「救われるためにはイエスキリストを信じてちゃんと仕事をしてください・・・」、「救われるためにはイエスキリストを信じて禁酒禁煙をしてください・・・」、「救われるためにはイエスキリストを信じて一生懸命勉強して、立派な人になってください・・・」、付け足そうと思えばいくらでも付け足すことができます。こうした自分たちが付け足したものに縛られて生きているのが、『異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである』と主張した、「パリサイ派の者で信者になった人々」であったのです。

申命記10章12節には、「イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。」という言葉があり、イエスキリストは、この戒めを最も大切な律法として教えていますが、このあとの16節には「あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。」という勧めの御言葉があります。神さまがあなたを愛してくださったのだから、あなたも心の包皮を切り取って、素直にありのままで、神様に向き合いなさい。これこそが真の割礼であり信仰の雛形として律法のうちに表されたものなのです。私たちも開かれた心をもって主のみ言葉に聞き、無条件の愛のもとに置かれたことを感謝しつつ、神と隣人を心から愛して生きるものにしていただきたいと思います。

 

20161106 信仰による義 ガラテヤ ガラテヤ2:15~21

アンテオケ教会の交わりに加わったペテロは、当初は異邦人クリスチャンと同じ信仰を共有する者として親しい交わりを持っていました。しかし、エルサレム教会から「割礼派」と呼ばれる保守的なユダヤ人クリスチャンがやってくると、ペテロは彼らの目を恐れて、異邦人クリスチャンから距離を取るようになり、また、バルナバまでもがペテロの行動に追従していったのです。「割礼派」の人々は異邦人の救いに関して、イエスの贖いを信じることだけでなく、律法の遵守(割礼)をが不可欠であると主張する人々です。こうした人々の目を恐れて、異邦人との交わりを遠ざけたペテロの態度は、既にエルサレム会議において確認された「信仰による救い」の教理を曖昧にするものであり、福音の根幹に関わる問題としてパウロはペテロに厳に抗議をいたしました。律法の行いに信仰を加えて漸く完成する救いは、ユダヤ人が異邦人との比較の中で抱いた選民意識のような満足を与えるかもしれませんが、それによって人は神の御前には義とされることはありません。パウロはこうした自己満足や自己義認は、キリストとともに十字架につけられ、いま生きていぬのは、「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰による」といいます。これこそが信仰の原点であり、救いの原点にあるものです。決してこれが動かされてはならないのです。(宗教改革を記念して)