20161023 信仰の門 使徒14:24~28

アンテオケ教会での宣教報告でパウロとバルナバが報告したことは2つのことでした。第一の報告は「神が彼らとともにいて行われてすべてのこと」でした。その具体的な内容はここには記されていませんが、13章の派遣に始まる第一回伝道旅行の記録を振り返るときに、万事が順風であったとはいえません。魔術師エルマとの出会い、ヨハネ・マルコの離脱、ユダヤ人からの抵抗と迫害の事実を見て取ることができますが、こうした多くの苦難の中でも福音が伝えられるときに、そこではキリストを信じる者が起こされ、長老を立てることができるようなキリストの群れ、つまり教会が建てられてゆきました。 パウロはこれらの一切を「神が彼らとともにいて行われてすべてのこと」と報告しているのです。伝道の過程で起こってきた良いことも困難も、すべては「主がともにいておこなわれた」と言うパウロは、後にコリント教会に宛てた手紙の中に、このような言葉を残しています。「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(Ⅰコリント15:10)

第二の報告は「神が異邦人に信仰の門を開いてくださった」ということでした。壁によって仕切られた内側と外側とを行き来するために設けられるのが「門」ですが、実際的な機能を考えるときに、内側にあるものを出さない、また外側にある者の侵入を防ぐのが「門」といえます。エリコの城門のように(ヨシュア6:1)、ユダヤ人と異邦人の間に壁が据えられて両者を厳に分けていたのが、イエスが来られる以前の時代でした。この場合の壁とは古い契約であり律法ということでしょう。こうした壁に据えられて異邦人の侵入を阻み続けた門が、いま神の手によって開かれたというのが、パウロとバルナバの報告でした。そもそもアンテオケ教会は、ステパノの殉教によって起こった迫害によって散らされた人々の中で、キプロス人とクレネ人の幾人かが、ギリシャ人に福音を伝えたことによって生まれた異邦人教会でした。この当時の多くの教会はユダヤ主義的な考えに支配され、福音と律法の関係を整理することができずにいましたから、神が異邦人に信仰の門を開いてくださったという報告が、アンテオケ教会の人々にとってどんなに大きな喜びをもたらしたかが想像で来ます。

こうした中で、アンテオケ教会は新約聖書の時代に宣教の拠点教会として大きく用いられてゆきました。かつてイエスさまが弟子たちに、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(1:8)と語られたことの、「地の果て」という視点をアンテオケ教会はいるでも私たちに思い起こさせてくれる教会です。私たちも、「地の果てまで」という視点を失うことの無いように、主が今も救いの門を開いてくださることを覚えながら、キリストの証人として遣わされたところで生きる者でありたいと思います。

20161016 神の国に入らなければならない 使徒14:19-23

ルステラでパウロは、アンテオケとイコニオムからユダヤ人と、彼らに扇動された人々に「石打ち」にされますが、神は彼を癒し再び福音の使者としてデルベの人々の救いのために用います。バルナバとパウリはこの町から折り返して、これまで訪問してきた町ましを再び訪れて、そこでキリストの弟子とされた人々を励ましながら、シリアのアンテオケへの帰路につきます。この励ましの内容についいては、22節で、「『弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った。」と記されています。この言葉は、多くの苦しみが神の国に入るための条件のように読み取れますが、本当にそうなのでしょうか?

これについて榊原康夫牧師は、英訳聖書(ESV)の「Through many tribulation,We must enter The Kingdom of God.」という文章から、「多くの苦しみを経てでも、私たちは神の国に入らなければならない」と訳しました。クリスチャンとして誠実に神と聖書の言葉に従って生きることを願うときに、避けられない試練や困難があります。だとしても、「私たちは神の国に入らなければならない」と語るパウロは、キリストの弟子とされた人々を待ち受けている試練の事実を知っていたのかもしれません。更に、パウロとバルナバは、弟子とされた人々が継続的に整えられ、養われてゆくために長老を任命しています。誰であれ好んで苦しい思いをしたいとは思いません。しかし、楽な道を選んで神の国(信仰)を捨てることは愚かなことです。主は苦難の中でも私たちとともにあり、すべてを益としてくださるおかたであること、また、私たちが信仰をもって神の国(救いの完成)に至る道を導いてくださるお方であることを忘れないようにしましょう。

 

20161009 生ける真の神に立ち返りなさい 使徒14:8-18

1) 足のきかない人の癒し・・・ルステラはイコニオムから南南西に30㌔程の場所にあるローマの植民都市でした。この町で伝道をしているパウロの傍らで、生まれつき足に障害を負ってあるくことの出来ない男が「パウロの話すことに耳を傾けたいた」と9節に知るされています。パウロの話とは言うまでもなくイエス・キリストの福音ですが、このように福音に耳を傾ける男について、「パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、『自分の足で、まっすぐに立ちなさい』と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。」と記されています。何を持って男に「いやされる信仰」があるとパウロが判断したのかはわかりませんが、少なくともこの男は熱心にパウロの話に耳を傾けていたことは想像ができます。

2)二人を現人神とする人々・・・生まれながらに足に障害を負って歩くことが出来なかった男が、パウロの言葉と共に歩き出したことは、人々にとって信じ難い奇蹟でした。そして彼らはパウロとバルナバを「ゼウスとヘルメスが人となって現れた」といって、二人を礼拝して献げものを捧げようとしたのです。「ゼウス」とはギリシャ神話に登場するオリンポスの神々の主神、ヘルメスはゼウスと女神マイアとの間に生まれた男の子で、雄弁で賢いことから神として知られます。

3)私たちも皆さんと同じ人間です・・・このような人々の思いを、人々がルカオニア語によって語り遭っている間は、パウロとバルナバには分からなかったようです。そうこうするうちに、ゼウスの神殿の祭司がいけにえとして献げる牛を引き連れた着たときに、パウロは人々の間に深刻な誤解があることに気がつきました。そこで、「バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、」とあります。これはユダヤ人の悲しみや憤り、絶望の表現ですが、このようにして、パウロは人々に叫びながら告げます、「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。」、更に「あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。」といって、異邦の国々の中にっても神の恵みが証されてきたことを切々と語り、「ようやくのことで、群衆が彼らにいけにえをささげるのをやめさせた。」というのが、ルステラでの出来度と出した。

4)生ける真の神に立ち返りなさい・・・ルステラの出来事は、これまでの伝道とは少し状況が違います。このルステラでの出来事でパウロの周囲にいた人々は、ユダヤ的な背景を持たない人々でした。彼らが神と聞いて心に浮かぶのは、ギリシャ神話に描かれオリンポスの神々であったのです。このような異教的習慣や考えに対して、パウロは「過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。」という言います。しかし、これに続くところでは、このような時代や国々にあっても、「恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」と言うのです。「恵みをもって」という言葉は、「善い」という言葉と「行う」という言葉が結びついた言葉です。それは、第一に「雨を降らせ」、第二に「実りの季節を与え」、第三に「食べ物と喜びでとであなたの心を満たしてくださる」ということ指し示しています。

しかし、どうでしょうか? 私たちの暮らすこの世界を見渡すときに、食べ物が無くて死んでゆく人々が現実の問題としてあります。今から15年前に「もし世界が100人の村だったら」という本が出版されました。この中の一節に「村に住む人びとの100人のうち、20人は栄養がじゅうぶんではなく、1人は死にそうなほどです。でも15人は太り過ぎです」とあります。この本が出版されててから15年が経ちましたが、依然として貧困の問題はなくなりません。パウロはこうした現実の中で、なぜ「生ける神は善い業によって人を養い、その心をよろこびに満たしてくださる」と言い切ることができたのでしょう。これについてのKey wordとばるのが「過ぎ去った時代には」という言葉です。パウロはこの言葉によって時代を2つに分けています。そして、この2つの時代を分けるポイントにあるのがイエス・キリストです。神の御子イエス・キリストが人となって世に来られ、私たちの罪を贖うため十字架で命を捨てられました。また、神はイエスを信じる者が罪と死の呪いから解放されて、真のいのちに生きるために、イエスを死者の中からよみがえらされました。聖書は、このイエスキリストの十字架と復活について、以下のように記しています。

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。  ヨハネの手紙 第一 4章 9-10節

イエス・キリストを知りる時代に生きる私たちの人生にも、思いがけない人生の試練や、不条理に思えるような困難があります。しかし、そうした中でも「神はいまも生きておられ、最も善いことを私にしてくださる」と言い切ることができるのです。イエス・キリストを通して明らかにされた神の愛を知っているからです。