20160911 神の恵みに留まりなさい 使徒13:38ー43

 

1)イエスによる罪の赦し   「ですから兄弟たち」という三度目の呼びかけによって、パウロはメッセージの最後の部分を語ります。そこで語られることは2つ、1つはイエスによる罪の赦し(38-39)、もう一つは罪への警戒(41-42)ですユダヤ人の罪に対する考え方はとても明確です。それは律法の違反ということです。十戒はすべての律法を象徴する戒めですが、律法はそれを守る者に祝福を約束しますが、それを破る者に罰則を与えます。祝福と罰則は律法が人々の間で正しく働くための力と言えるでしょう。しかし、人間はそんなに単純な生き物ではありません。こうした律法を行うにあたって、より、具体的にどのようなことが罪なのか、具体的に何が出来て何が出来ないのかという事になります。例えば第4戒、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせいよ。」(出20:8)という戒めには、「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」という説明が続きます。問題は「仕事」という事です。何が仕事で何が仕事でないのでしょうか?

伝統的にユダヤ教では、安息日に火をつける事は仕事と考えました。もちろん料理も仕事ですから、安息日の食事の用意は金曜日の日没までに行います。火をつけることは仕事ですが、火を消すことも仕事です。その他、お金の使用、ペンを持つ事も仕事ですから、はじめて会った人に連絡先を伝えるときは、名刺などを用意していくと親切だと言われます。移動できる距離もも制限されおり、当然車での移動は仕事と見なされ、曽野綾子さんが、「保守的なユダヤ教徒が住む地域を車で走ると石を投げられることがあると聞くが、石を投げることは仕事には当たらないのであろうか」と書いていました。律法や戒めは、それ自体が神の民の在り方を教え、それを守ることによってユダヤ人たちは、自分たちは神に選ばれた者であることを確認させます。しかし、同時に律法はその違反により生じる罪と罰則によって人を縛るものでもあるのです。

 

2)罪への警戒(41-42)  メッセージの最後にパウロは、旧約聖書ハバクク1:5のギリシャ語訳を引用して「預言者に言われているような事が、あなた方の上に起こらないように気をつけなさい」と警告しています。ハバククは紀元前7世紀の預言者です。2つに分裂したイスラエルの内、北は既にアッシリヤによって滅ぼされていました。そのアッシリヤが今度は南ユダにも迫ってきたときに、ハバククは預言します。1つは1:6では「見よ。わたしはカルデヤ人を起こす。強暴で激しい国民だ。これは、自分のものでない住まいを占領しようと、地を広く行き巡る。」と言われます。カルデヤ人、つまりバビロンです。強暴で激しいカルデヤ人を神はあなた方の敵として置かれるという預言です。しかしハバククは「それが告げられても、あなたがたは信じまい。」と語ります。このような警告が語られて、パウロのメッセージは終わります。後味が悪いメッセージです。しかし、この最後の2節は大変重要だと思うのです。パウロのメッセージの結論にあたるこのところで、語られた「それは、おまえたちに、どんなに説明しても、とうてい信じられないほどのことである。」(41b)という警告は、「信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」(39b)のキリストによる罪の赦しを受けて語られた言葉です。この二つの個所がメッセージを聞くものに強く迫ることは、「信じる」という決心です。

この後の42節を見ますと、パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるように二人に求め、更に多くのユダヤ人と異邦人の改宗者が、パウロとバルナバを囲み話し合いが続きますので、パウロのメッセージに対する人々のレスポンス(反応)の素晴らしさがうかがえますが、彼らの最後の勧めは、「いつまでも神の恵みにとどまっているよう勧めた。」(43)という励ましでありました。新共同訳「神の恵みの下に生き続けるように」。というもので、11章22節で、シリヤのアンテオケに派遣されたバルナバが、イエスを信じた人々に語った「みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているように」と同じ言葉です。新共同訳聖書では「固い決意をもって主から離れることのないように」と訳されるます。いずれも非常に強い決心を迫る勧めです。

3)義とされる 最後に、もう一度39節に戻って「解放される」という言葉ももう一度見ましょう。「解放される」という言葉について、注釈に『直訳すると「義と認められる」』というものが加えらています。この言葉は使徒の働きではここでしか使われていません。そして、使徒の働きの第一巻ともいえる、ルカの福音書でも1度だけ用いられますが、それが、18:9-14に記されている、パリサイ人と取税人の祈りについての譬えになかので用いられています。

18: 9自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。 18:10「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 18:11パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 18:12私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 18:13ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 18:14あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

使徒の働きと、ルカの福音書の、それぞれに一度ずつしか用いられない「義と認める」という言葉は、イエスを信じる信仰によって罪赦されて、神の恵みに留まるものとは、どのようなものかを示しています。律法の行いによらず、また正しくい来る自分を誇るものでもなく、ただ、神の御前に心が砕かれて「神の憐みを乞い願う」そのように生きることこそ、「神の恵みの身とに生き続ける」という者の姿でしょう。

今日、私たちは「いつまでも神の恵みにとどまっているよう勧めた。」、「神の恵みの下に生き続けるように」というパウロの説教を聞きました、この確かなパウロのメッセージを受けたからには、私たちもあの取税人のように、パリサイ人のようにではなく取税人のように謙って「神の恵みの下に生き続ける」決心をしたいと思います。聖霊なるキリストが、皆さん一人ひとりに決心を確かな導きの中で守ってくださるよう祈ります。

 

 

 

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