20160925 永遠のいのちにふさわしい者 使徒13:44ー52

16世紀にフランスに生まれたカルヴァンという神学者は、神の絶対的な主権を強調し、人間は堕落のゆえ救いを得る能力はなく、救いはただ神の一方的な恵みによると言います。これに対して、カルヴァンの主張は極端すぎと考えてる人が出てきました。その代表的な人物がアルミニウスという人です。この人は、カルヴァンの、人間の堕落と救いに対する無力という考えは受け入れますが、しかし、人間には少なくとも神の呼びかけに応答する能力はあると主張しました。果たしてどちらの考えが正しいのでしょう?

 

1)ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た  ピシデヤのアンテオケのユダヤ人会堂(シナゴーグ)で語られたパウロのメッセージは人々の好評を得て、人々は次の安息日にも同じ話をしてほしいと人々は願い、また集会が終わって後にもパウロとバルナバを囲んで話し合いが続きました。こうした活動が続けられた結果、44節では、次の安息日には「ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た」と記されています。住人の少ない田舎の村ではありませんから、ちょっと大げさな表現に思えます。しかし、この「集まって来た」という言葉が名詞になると、ユダヤ人会堂を指す「シナゴーグ」ということになりますから、いわば町中そのものが会堂になったかのように、パウロとバルナバを通して語られた福音は人々に伝えられ、また人々が応答したと見ることができるでしょう。

2)ユダヤ人の妬みと、異邦人の賛美  こうした人々の応答は、そのまま直接ユダヤ人の妬みに繋がりました。たった一度の説教、わずか一週間の活動によって人々はみな、パウロとバルナバの下に集まってゆき、しかも、彼らが語ったことは「モーセの律法によっては解放されない罪の縄目に、イエスは完全な赦しをあたえる。」というものですから、やはり聞き捨てにはできなかったのでしょう。彼らは「ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった」(45)と記されています。

こうしたユダヤ人の反応を受けて、パウロとバルナバは宣言をします。それは、まず「あなた自身が神の言葉(福音)を拒否して、永遠のいのちにふさわしくない者と決めた」ということで、更に、旧約聖書イザヤ書49章6節後半の御ことばを引用して、「私たちは異邦人の方に向かう」という宣言です。これを聞い異邦人たちの反応は、「それを聞いて喜び、御ことばを賛美した」というもので、これに続いて「、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った。」と記されています。このように、ユダヤ人会堂から始まったパウロとバルナバの福音宣教は、ピシデヤのアンテオケの町に宣べ伝えられ、更に49節からは「その地方全体」へと拡大してゆきます。しかし、ふたりに対するユダヤ人の妬みは止むことなく、地位の高い夫人や権力者を扇動して、彼らをその地方から離れなければなりませんでした。

2)「永遠のいのち」と「定め」の関係  46節でパウロは、ユダヤ人について「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。」といいます。新共同訳聖書では「自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。」とされていますので、永遠のいのちに値するものか否かは、彼らの神の言葉に対する姿勢に由来すると読みことができます。ところが、48節では異邦人については、「それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った。」とあります。永遠のいのちに値するか否かはすでに定められたことであると読み取ることができます。一体どっちなのでしょうか?

 

そもそも、「永遠のいのちに定められている人」とは、どんな人なんでしょうか? 少し先の話になりますが、パウロが第二回の伝道旅行でベレヤという町をを訪れたとき、この町のユダヤ人について「「17:11 ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。17:12 そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った。」と知るされています。10章に登場するコルネリオはペテロを迎えたときに、「よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。」という姿勢を示しています。そのように、神の恵みに留まり続けることを求める人は、確かに永遠のいのちに定められたものと言えるでしょう。

パウロの先週の説教を聞いて、次の安息日にもう一度パウロの話を聞きたいと心の動いた人々がありました。既にそこには神の恵みがあるのです。そして、パウロはこの恵みに留まり続けなさい、この恵みを大切にしなさいと勧めます。しかし、町中の人々がパウロとバルナバの下にあつまるのをいたとき、ユダヤ人たちは、妬みに捕らわれて神の恵みを拒む者となったのです。信仰は神の賜物であり、私が入りたいから入るというものではありません。しかし、この恵みを拒んで滅びの道を選ぶのは、やはり人なのでしょう。

その一方で、18章を見るとパウロの動労者のプリスキラとアクラが、アポロという伝道者と出会う場面があります。ヨハネのバプテスマしか知らなかったアポロをプリスキラとアクラが教え助けて、やがてアカヤ(コリント)へと送り出しますが、送り出されたアポロについて、「彼はそこに着くと、すでに恵みによって信者になっていた人たちを大いに助けた。」(18:27)と記されています。ここで言われる「恵み」という言葉は、読み方によっては「助けた」にかけて、「すでに信じていた人々を、恵みによって大いに助けた」とも訳すことができます。主イエスを信じることが恵みであるとするならば、信じた者が主にある交わりの中で助けられ成長してゆくこともまた恵みなのです。どんなに立派な人であっても自分の力で救いを獲得し、自分一人で成長したクリスチャンになることはできないのです。

3)弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた  パウロとバルナバは、ユダヤ人の抵抗を受けてアンテオケでの伝道を続けることが出来ませんでしたが、今日の最後の節には、「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」(52)とあります。彼らの福音を伝えたパウロとバルナバは彼らの下を離れましたが、主を信じ弟子とされた者たちは「喜びと聖霊に満たされて」主の恵みにとどまり続けました。この喜びはが、弟子たちをパウロとバルナバに続く福音の伝達者としてゆくのでしょう。ユダヤ人会堂で始まったパウロの説教に始まった伝道は、わずか1週間で街そのものが会堂になったような勢いで広がってゆきました。これをパウロとバルナバが二人だけの活動とみることは不自然なことです。あのパウロ説教を聞いてイエスの福音にを受け入れた人々が、喜びと聖霊に満たされて、どれほどの人に福音を伝えたのでしょう。そして、そのように伝えられた福音がやがて「その地方全体に」と言われるまでに、あちこちに伝えられていったのです。これが御ことばが与える「聖霊の喜び」の結実なのです。

20160918 罪のない者が石を投げよ ヨハネ8:1~11k

旧約聖書の外典の「コヘレトの言葉」に次のような言葉があります。

そのときになると、家の番人はふるえ、力持ちは、かがみこみ、窓に太陽はかげって、臼ひき女は仕事を休む。彼女たちの数は少なくなったからである。そときになると、窓からのぞくふたりの者はかくれ、道へのとびらは閉じられる。粉つき場の音は静まり、小鳥の声はより細くなり、歌声もやむ。そのときになると、からだはのぼり道を恐れ、長い道をいやがる……。

「番人」とは手や腕のこと、「力持ち」とは足のこと、「臼ひき女」とは歯のことです。年をとると手足の力は弱まり、歯も抜けていき、ものもよくかめません。「窓からのぞくふたりの者」は二つの瞳のこと、「道へのとびら」とは耳です。視力は衰え、耳もだんだん遠くなってきます。「粉つき場の音」は声、声は弱くなり小鳥のさえずりより細くなり、ついに消えてゆきます。やがて、老人は 「のぼり道を恐れ、長い道」が歩けなくなります。あまりおもしろい譬えではありませんか。どのような心で人はこの老境をむかえるべきでありましょう?

1)姦淫の場で捕らえられた女(7:53-8:11)  大変有名な「姦淫の場で捕らえられた女」をめぐる裁きの出来事とです。簡単に出来事の流れを見てゆきますが。ユダヤ人の三大祭りの一つである「仮庵の祭り」に、エルサレムの宮でイエスが教えていると、その教えを遮るように、律法学者とパリサイ人が「姦淫の現場で捕らえられた女」を引き連れてきて、イエスがこの女の問題をどのように取り扱うかを質問しました。レビ記20:10では「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。」と定められています(参考:申命記22:23-24)。この女性は姦淫の現場で捕らえられたわけですから、問答無用で死刑に処されなければなりませんでした。しかし、律法学者とパリサイ人が、あえてこの女性が引き連れきました。これは、「イエスを告発する理由を得るためであった。」と4節に記されています。 律法に背いて女を赦すならば、イエスは律法を無視したことになります。逆に女を殺せというならば、イエス自身が語った、罪人に対する神のあわれみに矛盾することになります。この訴えに対して、イエスは身をかがめて、指で地面に何かを書いておられるばかりで、答えることはありませんでしたが。律法学者とパリサイ人が問い続けてやめなかったので、ただ一言「あなたがたのうちで罪にない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われました。

2)年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き(9)  これを聞いた者たちは、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスと女だけが残されました。女を裁くことの出来る者がなかったことを確認すると、イエスもまた「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と女の赦しを語られます。今日、心に留めたいことは「年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き」というところです。彼らは表面的には女の罪を問題にしていますが、罪の問題も、その当事者の女性も、イエスをおとしめるための口実であり、道具にすぎませんでした。これは、彼らの歪んだ正義感の表れかもしれません。そのように、彼らは自分の中にある罪は棚に上げて、イエスを訴えるために罪に問題を利用するのです。こうした律法学者とパリサイ人に対して発せられた「あなたがたのうちで罪にない者が、最初に彼女に石を投げなさい」という言葉は、彼らの心を自分の中にある罪の問題に向けさせる一言でありました。恐らく、律法学者とパリサイ人だけでなく、そこにいた全ての者が自分の罪を問われたのではないかとおもいます。皆さんがは如何でしょうか。

このイエスの言葉うけて初めに反応をしたのは「年長者たち」でした。年長者としてのプライドやメンツもきっと彼らにはあったでしょう。イエスを訴える口実を得るために周到な準備をし、罪ある女を捕らえ、場合によってはこの女を殺すことになっても致し方ないという覚悟をもって、イエスの迫った律法学者とパリサイ人たちですから、イエスの答えを受けて、その場を離れるということは不名誉なことです。しかし、年長者たちはイエスの「あなたがたのうちで罪にない者が、最初に彼女に石を投げなさい」という言葉を聞いて、自分にはこの女性に石を投げる資格がないこと認めたのです。イエスを訴えるためにこの女性を利用した、律法学者とパリサイ人たちの行動は、決して誉められたものではありませんが、イエスの答えを聞いてこの場を離れた年長者たちの勇気は素晴らしいものです。なぜならば、彼らの行動を見た他の者たち、おそらくそこにいた全てのものが、自分には女に石を投げる資格はないことを知る機会を与えるものとなったからです。

 

3)「年を取る」、それとも「年を重ねる」  人生の時間の経過を表す表現に「年を取る」という言い方と、「年を重ねる」という言い方があります。前者は人生の残された時間が少なくなることを「取る」という言葉で表現し、後者は、時間の経過とともに増えてゆく「経験や知恵」という、人生の内容を「重ねる」と言う言葉で表現する積極的な表現です。皆さんにとって人生の時間の経過は「年を取る」ことでしょうか?それても「年を重ねる」ことでしょうか?

詩篇の92篇は、「主に感謝することは、良いことです。」という勧めによって始まります。沢山の物や才能に囲まれた人は僅かなものに感謝することは難しいものですが、しかし、自分の貧しさを知る者は、同じ僅かなものでも恵みであり感謝せずにはおれません。感謝の心に溢れたひとは、人から見れば取るに足らない、当たり前の毎日でも、そこに神の恵みを数えることができます。そのように生きる人について、この詩篇92編は最後にこのように言っています。

92:12 正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。 92:13 彼らは、主の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。 92:14 彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。 92:15 こうして彼らは、主の正しいことを告げましょう。主は、わが岩。主には不正がありません。

ナツメヤシは高々とした美しさ、レバノン杉は真っ直ぐで曲がらない強さを象徴します。これらは「主の家に植えられ」た人の特徴です。これらの人は絶えることのない神の恵みに根を下ろすのです。主に用いていただける時期はもう終わったと思ってはいませんか。そう思っているとするならば、それは間違いです。私たちがいつでも、主の御前に赦された罪人であることを心に留め、日々注がれる主の恵みに感謝して生きるとき、そうした人は「年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。」と言われています。実を結ぶのはこれからです。そして、そのような年長者の姿に学んで、私たちも「年を重ねる者」でありましょう。

20160911 神の恵みに留まりなさい 使徒13:38ー43

 

1)イエスによる罪の赦し   「ですから兄弟たち」という三度目の呼びかけによって、パウロはメッセージの最後の部分を語ります。そこで語られることは2つ、1つはイエスによる罪の赦し(38-39)、もう一つは罪への警戒(41-42)ですユダヤ人の罪に対する考え方はとても明確です。それは律法の違反ということです。十戒はすべての律法を象徴する戒めですが、律法はそれを守る者に祝福を約束しますが、それを破る者に罰則を与えます。祝福と罰則は律法が人々の間で正しく働くための力と言えるでしょう。しかし、人間はそんなに単純な生き物ではありません。こうした律法を行うにあたって、より、具体的にどのようなことが罪なのか、具体的に何が出来て何が出来ないのかという事になります。例えば第4戒、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせいよ。」(出20:8)という戒めには、「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」という説明が続きます。問題は「仕事」という事です。何が仕事で何が仕事でないのでしょうか?

伝統的にユダヤ教では、安息日に火をつける事は仕事と考えました。もちろん料理も仕事ですから、安息日の食事の用意は金曜日の日没までに行います。火をつけることは仕事ですが、火を消すことも仕事です。その他、お金の使用、ペンを持つ事も仕事ですから、はじめて会った人に連絡先を伝えるときは、名刺などを用意していくと親切だと言われます。移動できる距離もも制限されおり、当然車での移動は仕事と見なされ、曽野綾子さんが、「保守的なユダヤ教徒が住む地域を車で走ると石を投げられることがあると聞くが、石を投げることは仕事には当たらないのであろうか」と書いていました。律法や戒めは、それ自体が神の民の在り方を教え、それを守ることによってユダヤ人たちは、自分たちは神に選ばれた者であることを確認させます。しかし、同時に律法はその違反により生じる罪と罰則によって人を縛るものでもあるのです。

 

2)罪への警戒(41-42)  メッセージの最後にパウロは、旧約聖書ハバクク1:5のギリシャ語訳を引用して「預言者に言われているような事が、あなた方の上に起こらないように気をつけなさい」と警告しています。ハバククは紀元前7世紀の預言者です。2つに分裂したイスラエルの内、北は既にアッシリヤによって滅ぼされていました。そのアッシリヤが今度は南ユダにも迫ってきたときに、ハバククは預言します。1つは1:6では「見よ。わたしはカルデヤ人を起こす。強暴で激しい国民だ。これは、自分のものでない住まいを占領しようと、地を広く行き巡る。」と言われます。カルデヤ人、つまりバビロンです。強暴で激しいカルデヤ人を神はあなた方の敵として置かれるという預言です。しかしハバククは「それが告げられても、あなたがたは信じまい。」と語ります。このような警告が語られて、パウロのメッセージは終わります。後味が悪いメッセージです。しかし、この最後の2節は大変重要だと思うのです。パウロのメッセージの結論にあたるこのところで、語られた「それは、おまえたちに、どんなに説明しても、とうてい信じられないほどのことである。」(41b)という警告は、「信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」(39b)のキリストによる罪の赦しを受けて語られた言葉です。この二つの個所がメッセージを聞くものに強く迫ることは、「信じる」という決心です。

この後の42節を見ますと、パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるように二人に求め、更に多くのユダヤ人と異邦人の改宗者が、パウロとバルナバを囲み話し合いが続きますので、パウロのメッセージに対する人々のレスポンス(反応)の素晴らしさがうかがえますが、彼らの最後の勧めは、「いつまでも神の恵みにとどまっているよう勧めた。」(43)という励ましでありました。新共同訳「神の恵みの下に生き続けるように」。というもので、11章22節で、シリヤのアンテオケに派遣されたバルナバが、イエスを信じた人々に語った「みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているように」と同じ言葉です。新共同訳聖書では「固い決意をもって主から離れることのないように」と訳されるます。いずれも非常に強い決心を迫る勧めです。

3)義とされる 最後に、もう一度39節に戻って「解放される」という言葉ももう一度見ましょう。「解放される」という言葉について、注釈に『直訳すると「義と認められる」』というものが加えらています。この言葉は使徒の働きではここでしか使われていません。そして、使徒の働きの第一巻ともいえる、ルカの福音書でも1度だけ用いられますが、それが、18:9-14に記されている、パリサイ人と取税人の祈りについての譬えになかので用いられています。

18: 9自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。 18:10「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 18:11パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 18:12私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 18:13ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 18:14あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

使徒の働きと、ルカの福音書の、それぞれに一度ずつしか用いられない「義と認める」という言葉は、イエスを信じる信仰によって罪赦されて、神の恵みに留まるものとは、どのようなものかを示しています。律法の行いによらず、また正しくい来る自分を誇るものでもなく、ただ、神の御前に心が砕かれて「神の憐みを乞い願う」そのように生きることこそ、「神の恵みの身とに生き続ける」という者の姿でしょう。

今日、私たちは「いつまでも神の恵みにとどまっているよう勧めた。」、「神の恵みの下に生き続けるように」というパウロの説教を聞きました、この確かなパウロのメッセージを受けたからには、私たちもあの取税人のように、パリサイ人のようにではなく取税人のように謙って「神の恵みの下に生き続ける」決心をしたいと思います。聖霊なるキリストが、皆さん一人ひとりに決心を確かな導きの中で守ってくださるよう祈ります。