20160619 同じ聖霊の賜物が 使徒11:1-18

今日は父の日です。6月の第三日曜日の父の日を祝うのはアメリカ式(イギリス)で、台湾では8/8(パパ) 韓国では5/8(父母の日)、オーストラリヤでは9月の第1日曜(冬の終わり)、フィンランドでは11月の第2日曜日、イタリヤでは3/19(サン・ジョゼッペの日)、ドイツではキリストの昇天日にお父さん同士が集まって遊ぶそうです。国によってずいぶん違うものですが、お父さんへの感謝という思いは共通です。お互いに忘れないようにしたいものだと思います。

1)教会のペテロへの非難(1-3)

ペテロが語る福音を聞いたコルネリオとそこに集まっていた者たちは語り、聖霊が注ぎと賜物を受け、彼らは洗礼へと導かれてゆきました。この報告を受けたエルサレム教会の反応が11章に記されています。異邦人たちが神の言葉を受け入れた知らせを聞いたエルサレム教会の主だった者たちは、ペテロを呼びつけて「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした」(3)と非難します。「一緒に食事をする」ということは親しい交わりを表すもので、律法に基づく「言い伝え」によれば、罪人や異邦人と食事を共にすることは固く禁じられていました。彼らは、罪人や異邦人を汚れた者と考え、彼らと交わるときに自分も汚れると考えたのです。ユダヤ人クリスチャンは異邦人が神の言葉を受け入れたという事実より、ペテロが「異邦人と食事を共にした」ということを問題視しました。教会の中にはいまだにユダヤ主義的な価値観に支配された人々が多かったようです。罪を悔い改めイエスの十字架と復活を信じ受け入れた人々が、伝統的な価値観に縛られて民族主義的な考えを捨てられなかったことは、私たちにとって不思議に思えます。しかし、これは私たちと無関係とはいえません。

明治維新とともに、日本の社会の中で急速に開かれた西洋文化の象徴的な場所の一つが教会でありました。多くの宣教師たちは英語教育をおこない、当時の社会的な富裕層やその子弟は西洋式の教育を受け、教会は上流階級のサロンのような場所であったと言われ、貧しい人の居場所はなかったようです。私たちが教会の中から世の中を見つめて、そこで生きる人と自分たちとの間に壁を設けてるならば、それは健康なクリスチャンの姿とは言えません。何故ならば、クリスチャンとはイエスに倣って生きる人であり、イエスは人となって世に来られ、また、罪人とともに食卓に着かれたのです。私たちもまた、壁の向こう側にいる人たちにイエスの福音を伝えるために、そうした人々の中で生きるべきではないでしょうか。

2)異邦人の救いとイエスの約束(4-16)

ユダヤ人の非難を受け、ペテロは異邦人のコルネリオのもとに導かれた経緯を、「順序正しく説明していった(4)」と書かれています。ユダヤ主義的な考えでペテロを非難する兄弟たちへの説明ですから、詳しく正確に行う必要があったのでしょう。16節でペテロは、「私はそのとき、主が、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる』と言われたみことばを思い起こしました。」と語ります。これは、使徒1章5節のイエスことばです。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」という命令とともに語られますので、直接的には使徒2章で弟子たちが聖霊を受けることによって成就しますが、ペテロは異邦人コルネリオとの出会いを通して「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」という主のことばの意味を悟り、彼らの聖霊が注がれたことによって、主の救いの計画はユダヤ人にとどまるものではなく、異邦人にも開かれていることを確信するのです。

3)同じ御霊の賜物が(17-18)

ペテロは最後に、「こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。(17)」と語ります。ここで言われる「同じ賜物」とは聖霊です。聖霊はすべてのキリストを信じる者の内にとも住み、Ⅱコリント12:3には、「神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(Ⅰコリント12:3)とある通りに、私たちを信仰の告白に導き、その告白に生きることが出来るよう守ってくださいます。

「さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。(Ⅰコリント12:4-6)」と語られるとおりに、各々に与えられた異なる賜物は、同じ御霊によって与えられたものです。また、このように異なる賜物が私たちに与えられているのは「「みなの益となるため(12:7)」であると聖書は記します。皆さんは自分に主が与えてくださった賜物を自覚しているでしょうか。それは「互いの益となるため」という尊い目的のために与えられた物です。私たちは、このこと心に留めつつ、積極的に賜物を用いる教会でありたいと願います。

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