20160615 キリストの証人 使徒1:3~11

1)キリストの証人とは、キリストの約束を信じて従う人

3~11節で主が弟子たちに求めておられることは只1つ「エルサレムを離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい」ということです。只1つの命令ですが、イエスが弟子たちに求めることは明白です。それはエルサレムに留まるということです。他の町ではありません。聖書は私たちの人生に起こる全ての事柄について、詳細な指示を与えているわけではありません。その時々に祈の中で聖霊の導きを望みつつ、私たちが決断して行かなければならない余地を神は許しておられます。しかし、そこで誤った判断を避けるために、聖書が私たちに人生についてハッキリと示しておられることがあります。全てをここで取り上げることは出来ませんが、たとえば、イエスは弟子たちに「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と言われました。また、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)とも命じられます。只イエス・キリストに留まることを、主ご自身は私たちに求めておられます。他の神々ではありません。キリストは私たちに只ご自身に留まることを求めておられるのです。彼らはイエスに信頼して従いました。キリストのことばに従い通すことは、時に神様を信じない人に目に愚かに映ることもあるでしょう。しかし私たちは、そうした世の中の流れの中に身を置きつつ、聖書が何を語り、そこでイエスが私たちに何を望んでおられるかと言うことを、優先順位の第一位として生きて行きたいと思います。

2))キリストの証人とは、聖霊に力により生きる人

6~7節を見ますと、神の国について、弟子たちは尚伝統的なユダヤ人の考えに縛られていたことが分かります。ローマ帝国の支配から私たちを何時解放してくださるのですかと言う問いかけに対して、「それは、父なる神が定めておられることであって、あなたがたは知る必要のないことである」と答えつつ、イエスは8節のことばを語り、弟子たちが後のどのような者となるかを告げられました。「証人となります」というイエスのことばは、直接にはイスカリオテ・ユダを除いた11人の使徒と、そこにいた弟子たちに向けられて語られたことばですが、同時にイエスを、私の救い主として信じる全てのクリスチャンに向けられたものでもあると見ることが出来るでしょう。キリストの証人として生きることは、確かにイエスが私たちに託された使命であり、神がご自身を信じて生きる者の将来に描いておられる姿と言えるでしょう。しかし、それは聖霊の注ぎと力を受けた結果であるということを忘れないようにしましょう。

3)再臨の主を待ち望む希望

このように語られてのち、キリストは天に挙げられ見えなくなりましたが、同時に、二人の御使いが彼らの傍らに立ち、再びキリストは来られる事を告げます。キリストの再臨ということが弟子たちに明らかにされるのです。 イエスは私たちの罪に赦しのために人となって世に来られ、十字架に死なれました。これは私たちの罪を贖う(買い取る、身代金を払って解放する)為でした。そのように世に来られたキリストは、復活の後に天に昇り、それと同じさまで再び来れると聖書は語ります。この再び来られるキリストを待ち望む希望が、弟子たちのキリストの証人としての生涯を支えました。「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目には、 罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、完全な救いをもたらすために現われてくださるのです。」(ヘブル9:28)。キリストは罪の赦しのために再に来られるのではなく、キリストを待ち望む人々の「救い・祝福」のために来られるというのです。そして、この祝福はすべての主の弟子に約束されているのです。キリストの証人の3つめの姿は、再び来られるキリストの祝福を待ち望み、誠実に生きる人といえるでしょう。

20160508 ナオミの試練と決断 ルツ1:1-18

 

1)エリメレクと二人の子供の決断

ルツ記は士師記の時代に起こった出来事です。また、4章の最後の部分を見ますと、ボアズから数えて4代後にダビデ王が生まれますので、一般的に紀元前12世紀後半の出来事と考えられます。ナオミの夫であるエリメレクは、飢饉を避けベツレヘムからモアブへと移り住みました。2節の「とどまっているとき」との記述からエリメレクは、モアブ滞在を飢饉から家族を守るための一時避難と考えていたようです。しかし、人生はままならないもので、エリメレクはモアブの地で死んだと聖書は記しています。エリメレクの死は残された妻と子どもたちの暮らしに大きく変化をもたらしました。息子マフロンとキルヨンは、モアブ人のオルパとルツを妻として迎えます。残されたを母を守りながら暮らしてゆき必要に迫られた、二人の子どもたちは先ず生活の安定ということを図るのです。私たちはその時々に、何が必要かを考え、何が正しいかを考え、何を守らなければならないかを考え、そうした事の中で決断を求められます。人生はこうした決断の積み重ねによって造り上げられるといっても過言ではないでしょう。エリメレクにはエリメレクの決断があり、二人の息子たちには彼らの決断がありました。最善の決断は何処から来るのでしょう。これは誰にとっても重要な人生の課題と言えるでしょう。

2)ナオミの決断

2人の息子のもとに嫁いできたオルパとルツは、夫に先立たれたナオミにとって大きな慰めでした。イスラエル人とモアブ人という壁をこえて、彼女たちが互いに、確かな愛によって結ばれていたことは、この後の彼女たちのやり取りによっても明らかです。しかし、再びナオミを大きな悲しみが襲います。二人の息子マフロンとキルヨンが死んだのです。夫に先立たれ、二人の息子を失い、ナオミの悲しみはどれ程大きなものであったろうかと思うのですが、ナオミは残された二人の娘、オルパとルツの先行きを考えなければなりませんでした。彼女はオルパとルツを連れて故郷へと帰ろうとしますが、これを思い留まり二人に母のもとへと戻りなさいと命じます。ベツレヘムはオルパとルツにとって見知らぬ土地であり、そこには知り合いません。悩みや孤独が彼女たちに臨むことは十分に予測出来ました。一方、モアブは二人にとって生まれ育った場所であり、両親や親戚、友人達もいたのでしょう。ナオミは二人をこの地に残してゆくことを決断するのです。8節~9節のナオミのことばが見られます。これは、「あなたたちが死んだ息子たちや私を愛してくださったように、神さまがあなたたちを愛してくださり、再び幸せな家庭を築くことが出来るように」というナオミの願いのことばです。

3)オルパとルツの決断

オルパとルツは、ナオミのことばに従おうとはしませんでした。ナオミが自分たちをどれ程愛しているかがオルパとルツには手に取るように分かりました。ですから、二人はナオミと別れることをこばみます。これに対してナオミは、申命記25章5節(レビラト婚) の戒めを取り上げて娘たちを説得するのです。オルパはナオミのことばを聞いて、ナオミのもとを去ることを決断します。これ以上母の心を煩わせたくはなかったのです。しかし、オルパが去った後にも、ルツはナオミのもとを離れようとはしませんでした。16~17節にルツの決断が見られます。ルツはナオミが娘たちのために残そうとした、再婚の可能性や、それによって得られる幸せな家庭生活よりも、ナオミと一緒にいることを願ったのです。

ルツ記の一章に登場する人々には夫々の決断があります。エリメレクは家族を守るために、二人の息子は、父の死に伴い残された母を支えるために、ナオミは二人の息子の死んダ時に、二人の嫁の将来の幸せのために、二人の娘も義母の愛を知り、オルパは別れを選び、ルツはナオミと一緒にいる決断をします。夫々がその時々に、自分以外の誰かのために大切な決断をしています。彼ら経験は必ずしも喜ばしい出来事ではないかもしれませんが、そこでの、夫々の歩みを主が導いて下さってり、後に、ベツレヘムにナオミとともに戻ったルツはボアズと出会い、彼によってアビメレクの失われた地所は買い戻され、ルツはボアズのもとに嫁いでゆきます。そして、ひ孫にあたるものがダビデ王となり、この家系から、イエスキリストは人とし生まれます。私たちの人生の決断は、大きな決断もあれば、取るに足らないような決断もあるかもしれません。しかし、そうした取捨選択、決断の場面で、主を思い、大切な誰かを思い、主が導いて下さる人生をを思い、そのような決断がで出来たら、本当に幸いだと思います。