20160622 聖霊を受けなさい ヨハネ20:19-23

1)聖霊と派遣(21)

復活されたイエスは弟子たちに、「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20:21)。と語ります。イエスが彼らに語られたことは、「派遣」でした。この派遣の目的につて使徒パウロは次のようにしるしています。「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。」(Ⅱコリント2:18-20)「使節」と言う言葉は、特定の目的のために国の代表して外国を訪れる人をさします。第二次世界大戦中にリトアニアに派遣され、ナチス・ドイツの迫害を逃れてきたユダヤ人にビザを発行して、約6000人のユダヤ人避難民を救った「杉原千畝」は、日本か委ねられた権限をユダヤ人避難民の救済のために用いました。聖書はクリスチャンについても国籍は天にあり、そこから、「和解のことば(キリストの福音)」を委ねられ、和解の務めを目的として派遣された使節と呼びます。これこそが、神が私たちのうちに描き求めていておられる姿といえるでしょう。

2)聖霊といのち(22)

弟子たちの派遣を告げたイエスは「聖霊を受けなさい」と命じます。この言葉は23節に繋がるものですが、この言葉を語る前にイエスは、弟子たちに「息を吹きかける」ということをなさいます。この行動にどんな意味があるのかを考えさせられますが、これを理解するために旧約聖書からエゼキエル書37章1-10節を見たいと思います。預言者エゼキエルは、主の霊によって、幻の内に干からびた骨のが満ちた谷間に導かれます。非常に多くの干からびた骨は死を象徴するもので、偶像礼拝続けた結果バビロニヤに滅ぼされたイスラエルを暗示するものであり、神はエゼキエルに干からびた骨に神のことばを語る事を命じます。エゼキエルが神のことばを預言すると、骨が互いにつながり、筋と肉と皮膚が生じます。そして、そこに息が入る時、干からびた骨は神のことばの通り生き返り、非常に多くの集団をなします。 キリストが息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と命じられたのは、新たないのちは聖霊の働きに中で伝えられるということでしょう。弟子たちがこれから派遣されて伝えてゆく福音は、信じる者に罪を赦しと真の命をもたらしますが、決して人の力によるものではなく、御霊がそこで彼らを用いてこそ実を結びものであることを明らかにするものと言えるでしょう。

3)聖霊と罪を赦す権威(23)

そのように聖霊を受けた弟子たちに、罪を赦す権威が委ねられました。私たちが罪の赦しと救い関する審判(ジャッジ)を下さなければなりませんこの事実を前に、ほとんどの人がそんな重い責任は負えないと思うでしょう。それはごく自然な反応です。しかし、主は23節で、「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」、と言われます。この言葉は注意深く聞く必要があるでしょう。先ほどのペテロがⅡコリント5章で、自分を含めたクリスチャンを「キリストの使節」と言った時にその目的は「神との和解」であるということを見ましたが、その和解の基準として神は、「和解のことばを私たちにゆだねられた」、と言っています。この和解のことばとはイエスの福音です。イエスは私たちの罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられたと言う福音は、信じて罪を悔い改める者に罪に赦しと真の命をあたえます。しかし、これを拒む者の罪は残るのです。この福音がキリストを救い主として信じる者に委ねられました。この福音が語られるところでは、イエス信じるか否かが厳に問われます。結果として信じる者と信じない者が分けられてゆくのです。神は私たちに対して、罪に赦しに関する知恵の全てが明らかにされているわけではありません。例えば一生の間一度も福音を聞くことなく地上の生涯を終えた人々を、主がどのように取り扱われるかは私たちには分かりません。だからこそ、私たちは謙遜に委ねられた福音を機会を用いて伝えて行きたいと思うのです。

4)神の懇願

神と罪人の和解のために、キリストの使節とされたパウロは、先ほどのⅡコリント5:20節の後半からこのように記しています。「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」 神は罪ある者が悔い改めて、ご自身との和解に入れられる事を「懇願」しておられると言います。「懇願」とは、切にひたすら願うと言う、とて強い願いをあらわすことばです。御霊がそうした神の愛を私たちにも注いで下さり、私たちもまだ神を知らない家族や隣人、友人のもとに派遣されていることを覚えながら、彼らが神との和解を受け入れることが出来るよう「懇願」の思いをもって、イエスの救いを伝えさせていただきましょう。

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