20160605 異邦人コルネリオの救い 使徒10:1-16 

「邦人」とは自分の国の人、つまり私たちにしてみれば日本人を指す言葉として用いられますので、「異邦人」とは外国人ということになります。以前に比べて、私たちは街中で日本人でない人を見かける機会も多くなりましたが、そうした人をみて「異邦人だ」とは言いませんので、外国人と異邦人は意味として重なる部分もありますが、やはり異なるニュアンスを持つ言葉です。聖書に見る「異邦人」という言葉は、アブラハムを祖先とするイスラエル民族以外の人を指すことばです。神はご自身の祝福の器としてアブラハムを選び、またアブラハムの子孫としてイスラエル(ユダヤ人)を神の民とする契約を結ばれました(出20)。それは、神がアブラハムに「あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。(創世記12:2b-3)」と語られた通り、イスラエル民族を通してすべての民が祝福されるためであり、この祝福はイエス・キリストの十字架と復活に繋がってゆくものです。しかし、このような意識が「選民思想」に繋がってゆきました。ここで選民思想を詳しく説明する時間はないのですが、英語ではelitism(イリティスム)といいます。これはフランス語のエリートという言葉からくるものです。ユダヤ人にとって、自分たち特別な存在と思う意識は、旧約聖書に明記された契約と立法の根ざしたものでしたら、こうした意識の壁を打ち破ることは、私たちが思う以上に困難なことであったと思われます。このようなイスラエル民族と異邦人との間に立ちはだかる壁を打ち破り、すべての人に福音が届けられると言うことこそ、使徒の働きの最も重要なテーマーと言えるでしょう。

1)コルネリオの救いの記録

  • コルネリオはイタリヤ隊(イタリヤ人によって構成だれた部隊)の100人隊長おして、カイザリヤに異邦人でした。彼は異邦人改宗ではありません(割礼を受け、律法を守る)が、彼も彼の家族も神を恐れて、ユダヤ人に好意を寄せて、神を礼拝する人でありました。(1-2)
  • ユダヤ人は1日に3回 9時、12時、3時の祈りを大切にしました。コルネリオもこの習慣に倣って祈りの時間を大切にしていました。ある日、午後3時の祈りの時間に、彼は幻の中で神様が送られた御使いを見ました。御使いはコルネリオに、ヨッパの街に人を送って、そこにいるシモン・ペテロという人を呼んできなさいと言いました。
  • その次の日、コルネリオが送った二人の人がヨッパの街の近くまで来たとき、ペテロも宿泊していたシモンの家の屋上で12時の祈りをするときに、幻を見ます。
  • 幻の中でペテロは、吊るされた布のような入れ物に入れられた動物を見ます。
  • その中には四本足で歩くたくさんの動物、這うものや鳥が入っていました。神はこれらの動物をほふって食べなさいとペテロに命じます。
  • ユダヤ人は律法に従って、ラクダや岩たぬき、ウサギや豚、その他、ヒズメの分かれていない動物は「汚れたもの」としてためませんでした。布の中にはこうした動物の姿もあったのでしょう。ペテロは、律法に従って「食べられません」と答えますが、神は「神がきよめたものを、清くないと言ってはならない」といわれました。

その後、コルネリオに送られた二人の使いが来たとき、聖霊がペテロに彼らと一緒に行くように促しますが、続きは次週にしたいと思います。

2)祈りの中で始められた主の御業(2.3.9)

ユダヤ人(へブル人)、イスラエル民族という枠を超えて、キリストの福音が異邦人の世界に伝えられ、彼らが救われてゆくという大変重要な時代の始まりは、コルネリオとペテロの祈りから始まったことに心を留めたいと思います。神は御使いを通してコルネリオに「あなたの祈りと施しは神のみ前に立ち上って、覚えられています(4)」と語られています。同様に、心から神を愛して生きる者の祈りと施し(信仰と愛の表現)はすべて神に覚えられているのです。「祈り」ということを思うときに、やはりジョージ・ミューラーという人が心に浮かびます。彼は幼いころに非行に走り、10歳のころには泥棒をするようになります。言葉巧みに嘘をついては、家族や友人、知人からお金を巻き上げて放蕩生活を続けますが、20歳の時に 友人に誘われて出席した祈り会で回心し信仰に導かれます。彼は祈りの人でした。6つの教会を開拓し、多くの宣教師を支援しましたが、彼の働きで特筆すべきは孤児院の運営でしょう。18世紀の半ばから始まった産業革命によって人々の貧富の格差を広げ、また同時に流行した疫病は、多くの孤児を生み出しました。ジョージ・ミューラーこうした子供たちの支援の重荷を与えられ、孤児院を始めました。30人の孤児を迎えて始まった孤児院は、最も多い時期には3000人に達し、支援した孤児の総数は1万人を超えます。このような規模に拡大した孤児院の運営について、ジョージ・ミューラーは経済的必要を外部に訴えることをせず、ただ信仰の祈りによって孤児を養ったといわれます。彼にまつわる祈りの逸話は数え切れません。ある嵐の朝、彼は400人の子供たちと食卓に着きますが、孤児院には子供たちに食べさする食料がありませんでした。しかし、彼は子供たちと一緒に食前の感謝の祈りをささげると、孤児院の前に馬車が止まり、焼き立てのパンとミルクが届きました。分けを聞くと、近くで行われる予定だったイベントが嵐で中止になり、このままでは廃棄することになるので、子供達に食べてもらいたいとのことでした。

私たちのすべて願いが叶えられることが、祈りが聞かれたということではあないでしょう。主は私たちの願いをNoと退けられることもあります。しかし、私たちが心に留めたいのは、神を恐れるコルネリオの祈りが「神に覚えられている」ことを、神は御使いを通してコルネリオに明らかにしてくださいました。私たちの毎日の祈りもまた、主は心に留めていてくださるのです。主の確かな信頼をもって祈るものでありたいと思います。コルネリオの救いは祈りから始まりました。ジョージ・ミューラーの働きもまた祈りによって支えられました。祈りの人と呼ばれるジョージの祈りは、雷のような激しいものであったかといえば、そうではなく、誰かと一緒に祈るときにも、相手に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で「子供たちの明日の食べ物をください」と祈っていたといわれます。コルネリオの祈りも毎日三回なされる普通の祈りであったのでしょう。しかし、そのように主に信頼するものの祈りの場から、御業ははじめられました。私たちも毎日の祈りを大切にしましょう。それが只の決まり事にならないよう注意しましょう。何時でもそこから主の御業がスタートすることを期待し、信じて祈りの家を建て上げてゆきましょう。

 

 

 

20160529 奇蹟の先にあるもの 使徒9:32-43

32節に「ペテロはあらゆる所を巡回し」とあります。このようなペテロ活動は7章後半からのステパノの殉教と教会への迫害の渦中ではじめられました。迫害の下で多くのクリスチャンが地方に散らされてゆきましたが、彼らは行く先々でみことば(キリストの福音)を宣べつたえ、結果として、地方においてもキリストを信じる人々が起こされるようになります、その代表的な場所がサマリヤでした。ステパノの同労者として教会に仕えたピリポがサマリヤに逃れて、そこで福音を伝えたときに、多くの人々がこれを信じて受け入れます。しかし、サマリヤ人はユダヤ人と同祖の人々ですが、異邦人の侵略をうけて(アッシリヤ)、民族的に異邦人と血が混じっていったサマリヤ人をユダヤ人は神の民とは見なさず、基両者が交流することはなかったのです。生まれて間もない教会の中には、ユダヤ主義的なクリスチャンも少なくありませんでした。そこで、エルサレム教会はサマリヤ人が神のことばを受け入れたことを確かめるために、ペテロとヨハネを派遣することにしたのです。サマリヤにおいて彼らは、「おごそかにあかしをし、また主のことばを語って後、エルサレムへの帰途につき、サマリヤ人の多くの村でも福音を宣べ伝えた」と聖書は記しています。

1)奇蹟の先にありもの(9:35.42)

このように村々を巡りながら福音を語るペテロの活動について、今日の箇所で2つの奇蹟が記されています、ルダでペテロはアイネヤという男性の「中風」(「片方がゆるむ」という意味を持つ病名で、恐らく脳卒中などに伴う体の麻痺を指すもの)をいやし、ヨッパという町では、病によって死んだタビタという女性を生き返らせます。こうした奇蹟は私たちの知的な理解の範疇をこえるものであり、「不思議」と言う他ありません。誰もが納得できる言葉でこれを説明することは容易なことではないでしょう。ですから、科学や医学をめぐる環境は、新約聖書と現代と異なり、「奇蹟」は事実として信じるに値しないと考える人もあれば、逆にこのような奇蹟を神の働きの「しるし」と考え、神に仕える者の働きには不思議が伴わなければならないと考える人たちもあるようです。いずれにしても少し偏っていると言わざるを得ません。私たちが心に留めたいのは、ペテロはアイネヤに対して語った「イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです」と言う言葉です。更に、これらの奇蹟はいずれも町の住む人々の救いにつながりました。不思議に感じるような事柄に接すると、人の関心はそれを行った者に向きがちです。しかし、このアイネヤの癒しはルダとサロンの住む人々は主に立ち返り、タビタの復活は、ヨッパの多くの人々が主を信じました。神に仕える働きは、それを行う者自身に人々の心を向けさせるものではなく、人々の心を神に向けさせ、彼らに救いを与えるものであることを忘れないようにしましょう。

2)奇蹟の背後にあるもの

タビタと言う女性について聖書は「女の弟子」と記しています。主イエスに付き従う女性は少なくはありませんでしたが、新約聖書において「女の弟子」と呼ばれる者はタビタだけです。彼女は主に仕える者として、ヨッパの町で「多くの良いわざと施し」を続けました。彼女の死を悲しむ「やもめたち」は、彼女が作った上着と下着をパウロに見せています。タビタは服を作っては、夫に先立たれて、経済的にも精神的にも苦しみの中に置かれていた女性たちの下を巡る歩き、服を配っては彼女たちを慰め、主の守りを祈っては励ます愛の人であったのです。パウロが彼女の遺体の傍らに立ったときに、「やもめ」たちがみな泣きながら、タビタの作った数々の下着や上着を見せたことは、こうした女たちとタビタが深い愛によって結ばれていたことを表すものといえるでしょう。ですから、タビタが生き返った知らせは、42節を見ると「ヨッパ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた」と記されています。ペテロは誰もが認める偉大な伝道者であり、神は彼の働きを祝福してご自身の栄光の現われとしました。同時に、主はタビタをヨッパの町に暮らす「やもめたち」のもとに送られましや、貧しさや寂しさの中で痛む人たちに寄り添い、服を作っては彼女たちのもとを訪ね、自分が出来る精一杯の愛を持って人々に仕えたタビタという女性。彼女もまた確かに神の栄光を表す人です。タビタという名前を聞いて、すぐに彼女のことを説明できる人は多くはないでしょう。しかし、このように「死者がよみがえる」という驚くべき奇蹟の背後にあったタビタは、主に愛に生きる人であったことを忘れないようにしましょう。

20160622 聖霊を受けなさい ヨハネ20:19-23

1)聖霊と派遣(21)

復活されたイエスは弟子たちに、「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20:21)。と語ります。イエスが彼らに語られたことは、「派遣」でした。この派遣の目的につて使徒パウロは次のようにしるしています。「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。」(Ⅱコリント2:18-20)「使節」と言う言葉は、特定の目的のために国の代表して外国を訪れる人をさします。第二次世界大戦中にリトアニアに派遣され、ナチス・ドイツの迫害を逃れてきたユダヤ人にビザを発行して、約6000人のユダヤ人避難民を救った「杉原千畝」は、日本か委ねられた権限をユダヤ人避難民の救済のために用いました。聖書はクリスチャンについても国籍は天にあり、そこから、「和解のことば(キリストの福音)」を委ねられ、和解の務めを目的として派遣された使節と呼びます。これこそが、神が私たちのうちに描き求めていておられる姿といえるでしょう。

2)聖霊といのち(22)

弟子たちの派遣を告げたイエスは「聖霊を受けなさい」と命じます。この言葉は23節に繋がるものですが、この言葉を語る前にイエスは、弟子たちに「息を吹きかける」ということをなさいます。この行動にどんな意味があるのかを考えさせられますが、これを理解するために旧約聖書からエゼキエル書37章1-10節を見たいと思います。預言者エゼキエルは、主の霊によって、幻の内に干からびた骨のが満ちた谷間に導かれます。非常に多くの干からびた骨は死を象徴するもので、偶像礼拝続けた結果バビロニヤに滅ぼされたイスラエルを暗示するものであり、神はエゼキエルに干からびた骨に神のことばを語る事を命じます。エゼキエルが神のことばを預言すると、骨が互いにつながり、筋と肉と皮膚が生じます。そして、そこに息が入る時、干からびた骨は神のことばの通り生き返り、非常に多くの集団をなします。 キリストが息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と命じられたのは、新たないのちは聖霊の働きに中で伝えられるということでしょう。弟子たちがこれから派遣されて伝えてゆく福音は、信じる者に罪を赦しと真の命をもたらしますが、決して人の力によるものではなく、御霊がそこで彼らを用いてこそ実を結びものであることを明らかにするものと言えるでしょう。

3)聖霊と罪を赦す権威(23)

そのように聖霊を受けた弟子たちに、罪を赦す権威が委ねられました。私たちが罪の赦しと救い関する審判(ジャッジ)を下さなければなりませんこの事実を前に、ほとんどの人がそんな重い責任は負えないと思うでしょう。それはごく自然な反応です。しかし、主は23節で、「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」、と言われます。この言葉は注意深く聞く必要があるでしょう。先ほどのペテロがⅡコリント5章で、自分を含めたクリスチャンを「キリストの使節」と言った時にその目的は「神との和解」であるということを見ましたが、その和解の基準として神は、「和解のことばを私たちにゆだねられた」、と言っています。この和解のことばとはイエスの福音です。イエスは私たちの罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられたと言う福音は、信じて罪を悔い改める者に罪に赦しと真の命をあたえます。しかし、これを拒む者の罪は残るのです。この福音がキリストを救い主として信じる者に委ねられました。この福音が語られるところでは、イエス信じるか否かが厳に問われます。結果として信じる者と信じない者が分けられてゆくのです。神は私たちに対して、罪に赦しに関する知恵の全てが明らかにされているわけではありません。例えば一生の間一度も福音を聞くことなく地上の生涯を終えた人々を、主がどのように取り扱われるかは私たちには分かりません。だからこそ、私たちは謙遜に委ねられた福音を機会を用いて伝えて行きたいと思うのです。

4)神の懇願

神と罪人の和解のために、キリストの使節とされたパウロは、先ほどのⅡコリント5:20節の後半からこのように記しています。「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」 神は罪ある者が悔い改めて、ご自身との和解に入れられる事を「懇願」しておられると言います。「懇願」とは、切にひたすら願うと言う、とて強い願いをあらわすことばです。御霊がそうした神の愛を私たちにも注いで下さり、私たちもまだ神を知らない家族や隣人、友人のもとに派遣されていることを覚えながら、彼らが神との和解を受け入れることが出来るよう「懇願」の思いをもって、イエスの救いを伝えさせていただきましょう。