20160501 全世界に出て行き福音を伝えなさい マルコ16:15-17

 

 

先週金曜日に招待キリスト教会に於いて、神奈川伊豆宣教区の宣教区会議が行われました。開会礼拝では現在中国北京で奉仕をしてられる山口真先生がルカ24章の「エマオ途上」の箇所からお話しくださり、宣教と言う事柄について大きな励ましを受けました。

お話しの中で中国宣教の歴史が語られましたが、中国での福音宣教は18世紀の後半にイギリスのロンドン宣教会によって派遣されたロバートモリソンというイギリス人によってはじまります。彼は世界で初めて漢英聖書に翻訳と、漢英辞典の編纂を行いました。どの後、モリソンにつづくように、ハドソンテーラー(中国奥地宣教団・現OMF)や多くの名もなき宣教師が、中国での宣教に献身して行きました。20世紀に入り、日中戦争から第二次世界大戦へと日本が中国大陸への侵略を進める中で、中国で活動してた宣教師は日本軍に捕らえられ、厳しい扱いを受け命を落とすものも少なくはなかったと言われます。こうした時期に用いられた宣教師にエリックリデルと言う人がいます。ご存知の方もあると思いますが、彼は陸上の短距離選手として活躍し、1924年のパリオリンピックに出場しますが、日曜日に行われる100m競技参加を、信仰を理由に拒否し、400m競技に参加して金メダルを取りました。その後宣教師として中国大陸で主に仕えますが、日本軍にとらえられ1945年に収容所で脳腫瘍のために召されます。

 

リデルは、収容所内でも聖書研究を収容者とともに続けますが、ある時に、山上の説教(マタイ5~7章)を読んでいると、一人の青年が、「『自分の敵を愛しなさい』という命令を聞くたびに日本兵が自分たちに行った仕打ちが頭に浮かぶ、私はとてもこの命令に従うことは出来ない」とリデルに訴えました。これを聞いたリデルは青年に、『「ぼくもそう思うところだったんだ。だけどこの言葉には続きあることに気がついたんだよ。『迫害する者のために祈りなさい』という続きがね。ぼくたちは愛する者のためなら、頼まれなくても時間を費やして祈る。しかし、イエスは愛せない者のために祈れと言われたんだ。だからきみたちも日本人のために祈ってごらん。人を憎むとき、君たちは自分中心の人間になる。でも祈るとき、きみたちは神中心の人間になる。神が愛する人を憎むことはできない。祈りはきみたちの姿勢を変えるんだ。」』と答えました。このようにしてリデルと収容者たちは毎日日本人の救いのために祈ったそうです。

リデルに「日本兵を愛することなどできない」と訴えた青年の名前は、スティーブン・メティカフ と言いました。彼は戦争が終わり母の母国オーストラリアに移り住みますが、日本人のために祈ることは終わることなく、後に宣教師として日本で38年に亘りご奉仕されました。

本当に主が宣教の使命に献身して、主の従うものを用いて為してくださる御わざの素晴らしさを思います。

 

スティーブン・メティカフ 宣教師は、青森県を中心に伝道を為されましたが、メティカフ 宣教師と出会い救いに導かれた青年に、川村江彌(カワムラ コウヤ)という人がいました。彼は献身に導かれ、学びと訓練の後に岐阜県で教会開拓を開始しました。とても保守的な土地柄で本当に苦労されたそうですが、現在は伝道所を持つほどの大きな教会に成長しました。川村江弥先生現在は引退されて、息子さんが主任牧師をされていますが、川村先生の一番上の娘さんが、実は齋藤五十三先生の奥様の千恵子先生です。

 

かつて日本のために祈ったリデルやメディカフが繋いだ宣教のバトンは、いま齋藤千恵子先生、五十三先生へと受け継がれて、これからも続いてゆくのでしょう。宣教は同盟教団のDNAだと言った先生がいましたが、うまいこと言うなと思います。私たちもの信

 

宣教は主が教会に託された大切な使命です。それは、教会の肢体である私たち一人一人の生きる意味と言っても差し支えがないことでしょう。そこで今日は、15-20節を中心に共に御ことばを味わいたいと思います。

1) 宣教の範囲と対象(15)

宣教の範囲は全世界、宣教の対象はすべての造られた者です。このような宣教のビジョンは主から来るものであり、私たちも信仰をもってしっかりと受け止めたいものですが、このビジョンをが形とするために主はあらゆるクリスチャンを用いられます。では具体的に私たちは、どのようなことが出来るでしょう。

①宣教の召しに答えて出て行く:宣教師は牧師や伝道師のような教職者だけがなるものとは考えないでください。宣教地で求められる宣教師の働きは多岐にわたります。そして、そうした中には信徒だからこそ出来る働き、また入国できる国が多いのです。わたしが宣教師なんて考えられないとは思わないで、主の導きを期待して祈って下さい。

②祈りと献金によって宣教師を支える:宣教師は宣教地で色々な働きをしますが、それは私たちの祈りと献金に支えられています。私たちが彼らのために祈る時に、私たちは彼らと共に宣教の働きを担う者となることが出来るのです。

③隣人に仕える:私たちは、自分の生活の範囲の中で「世界宣教」を意識することがあるでしょうか。私たちの生活の場は、日本人以外の人々から見れば十分に「世界宣教」の対象です。世界宣教の範囲を自分の生まれ育った国以外と考えるのは間違いです。皆さんの職場や学校で毎日会う友達や同僚、未信者の家族や親せきも、世界の半の中に生きる宣教の対象です。実は、このような身近な人々(特に家族)に宣教することは簡単なことではないのですが、彼らの救いのために祈り、証しの機会が与えられるように祈りましょう。これこそが最も重要な宣教の対象であることを忘れないでください。

2) 宣教の効果(16)

福音、すなわちキリストの十字架と復活が語られる時に、そこでは信じるものと信じない者の違いが明らかになります。信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。「神はすべてに人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます(Ⅰテモテ2:4)」とあるように、すべての人が救われることは主の御こころです。しかし主の赦は、罪を曖昧にするような形で赦しを与えるものではなく、御子イエスが十字架で私たちの罪の呪いを身代わりとなって負い、死ぬということに於いて与えられる赦しです。そこでは曖昧は赦されません。福音が語られる時に、それを信じるか、信じないかの決断が問われるのです。

3) 宣教のしるし(17-18)

「しるし」ということは、語られた福音が確かであることを示す奇蹟的な出来度です。それでは、こうした奇蹟が伴わい福音は真実ではないのでしょうか。そうではないのです。主の御ことばは、単なる机上の空論ではなく、力をもって私たちの人生を導くものです。そのこと象徴ていな出来事と関連づけて挙げられているのが、この4つのことなのです。

①イエスの名によって悪霊を追い出す:使徒16:16-18 ②新しいことばを語り:使徒2:2-4 ③蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも結して害を受けす:使徒28:3-6 ④病人に手を置けば病人は癒される:使徒9:17-19

こうした奇蹟は、この時代に私たちが福音を伝えるときに、必ず伴うものではありません。しかし、私たちが心に留めたいことは「主の御ことばには力がある」ということです。人を救いに導くのは語る者の優れた人格によるものでもなく、説得力でもありません。神の御ことばそのものに力があり、人を罪から解放することが出来るのです。

4) 宣教の力の源泉(20)

中国語の格言に「飲水思源」と言うものがあります。日本語に訳すると「水を飲むときに、その源を忘れない」ということです。宣教の力の源泉は神です。私たちの救いは神から来るものであり、また、私たちが誰かを救いに導くとき、それは「主は彼らとともに働き」とある通り、神の見わざにほかならないのです。そして、主はそうしたところで私たちが思いもよらないような、すばらしい御わざを成して下さいます。

宣教は同盟教団のDNAだと言った先生がいましたが、うまいこと言うなと思います。私たちもの信仰に遺伝子があるとするならば、その遺伝子のうちに受け継がれてゆく宣教の情熱を、しっかりと受け止めて生きて行きたいと思います。