20160424 わたしの羊を飼いなさい ヨハネ21:15-19

1)愛の問いかけ

ヨハネの福音書は、20章の最後に福音書が記された目的が述べられ、書としては完結しています。しかし、ヨハネはこれに補足するようにして、後にエルサレム教会のリーダーとして用いられるシモン・ペテロの召命を描いています。ペテロを任命するにあたって、イエスが問われたことはただ一つ、「あなたはわたしを愛するか」というものでした。ギリシャ語において、「愛」を示す言葉は4つあり、そのうちの2つがここで登場します。イエスは三回の問いかけの内、最初のニ回で「アガペー」という言葉を用います。これは、「愛するに値しない者を愛する」という決意を伴う愛、無条件で犠牲を伴う愛を指し示すもので、イエスの十字架につながるものです。この問いに対してペテロは「フィリア」という言葉を用いて答えます。この言葉は友情や友愛という親しい関係を表わす言葉です。アガペーの愛を問われて、フィリアで愛で答える。それは裏を返せば、「私にはアガペーの愛はありません」という告白といえるでしょう。三度の問いかけに対してペテロは、「あなたはいっさいのことをご存じです。」という言葉を加えます、それは、ペテロが三度に亘ってイエスを否認した事を暗に指し示すものです。

2)わたしの羊を飼いなさい

三度のペテロの答えに対してイエスは、「わたしの羊を飼いなさい」「わたしの羊を牧しなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と新たな使命が語られています。ペテロは、イエスを否認する失敗を犯して、故郷で漁師としての暮らしに戻ろうとしていましたが、そこで復活の主と出会い、愛が問われ、「あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」と素直に愛の無い自分を主に委ねた時に、「わたしの羊を飼いなさい」と、ペテロは再び主のしもべとしての働きに召されたのです。

3)主の僕シモン・ペテロの死

イエスはペテロに、新たな使命を告げた後、彼がどのような死に方をするかを語ります。ペテロが恐らくローマ皇帝ネロの迫害の下で殉教したと考えられますが、実際の殉教に至る過程ははっきりしていません。しかし、皇帝ネロのキリスト教への迫害を主題に、ヘンリク・シェンキェヴィチという作家が、「クォ・ヴァディス」という小説を書きました。この小説の中でペテロの殉教に至ることが記されていまので、あくまでも物語ですが紹介したいと思います。

西暦64年にローマの町を襲った大火事を、時の皇帝ネロはクリスチャンの仕業と断定して、教会とクリスチャンに対する迫害を始めます。迫害の勢いは日に日に大きくなり、この時にローマにいたペテロの身を案じた他の弟子は、密かにペテロをローマの町から脱出させます。夜の闇にまぎれてローマの町を後にしたペテロは、南に向かうアッピア街道を歩いてゆきまが、間もなく夜が明けるという時、向こうから歩いてくるイエスと出会うのです。驚いて跪いたペテロは、「主よ。どこにおいでになるのですか(ドミネ・クォ・ヴァディス)。」と尋ねます。これを聞いたイエスも答えは「お前が私の羊を見捨てるならば、私は再びローマへ行き、再び十字架にかかろう」というものでした。この言葉に撃たれたペテロは、我に返り、ローマに引き返して殉教の道を選ぶのです。

4)終わりに

ペテロが辿った道は、私たちが辿る道でもあるでしょう。主イエスの傍らにありながら、度々失敗し、自分を見失い、行き詰まる弱いペテロ。しかし、主の恵みと愛に支えられて、彼は神の栄光を表わす者として生涯を全うしました。たとえ死が私たちの地上の生涯の終わりを告げたとしても。主の愛は何も変わらないのです。ペテロを召された主が彼に求めたただ一つの問い、「あなたはわたしを愛しますか」。この問いかけを私たちも真剣に受けとめて、何時でも主の愛に問われて生きる、そんな歩みが出来ればと願います。

20160417 トマスの告白 ヨハネ20:19-29

1)疑り深いトマス

トマスと言う人物を取り上げる時に、必ず彼のキャラクターをあらわす言葉として付いてくるのが「懐疑論者(疑り深い者)」です。ヨハネ11章で、つい先日(10:31-39)、ユダヤ人に石打にされそうになった場所に再び戻るにあたってのトマスの告白は、勇ましく感じますが原文を読むと「いずれ私たち死ぬ。私たちに何の権限もない。先生が行くと言うんだから、行かなきゃならんだろうが」 と、捨て鉢なニュアンスが読みとれます。 

2)信じる者になりなさい

主イエスが復活された日の晩、ユダヤ人の迫害を恐れた弟子たちは、集まって戸を締め切り、身を隠すように過ごしていました。そこに、復活のイエスが来られたのです。彼らの喜びはどんに大きなもであったと思います。ところが、この場にトマスはいなかったのです。他の弟子たちの喜びが大きければ大きいほど、トマスが感じた疎外感は大きくなったと思われます。「何故イエスさまは私が居ないときに来られたのだろうか?」、そんな不安がトマスの心を揺り動かしたのでしょう。トマスは喜ぶ仲間たちに、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と断言しました。次の日曜日、復活の主は再び弟子たちにご自身をあらわされました。しかし、それは、信じないと心に決めたトマスのためであったのです。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」とイエスが言われます。疑い深くてへそ曲がりなトマス、自分一人だけが復活の主に出会えなかったという寂しさ、主イエスはそうしたトマスの個性も、心もお知りになって「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われるのです。

3)見ないで信じるものとは誰か

このような主の勧めに触れた時に、トマスはもう主の傷跡を確認する必要も、その傷後に指を差し入れる必要もありませんでした。トマスはイエスを「私の主、私の神」と呼んで、他の誰でもない私の主と告白するのです。またイエスはここで、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。(29)」とも言われました。トマスに語りかける形で間接的に、使徒たちが語る福音と聖霊の働きの中で信仰をもつようになる人々を念頭に置いて語られたものと言えるでしょう。それは私たちのことです。これは、弟子たちを通して宣べ伝えられる福音と聖霊の働きの中で、キリストのいのちが全世界へと広がってゆくことを明らかにしているのことなのです。

4)最後に

トマスのその後に関して、彼はインドで派遣され、貧しい者や虐げられた人々に仕えてながら宣教し殉教したと伝えられています。トマスの信仰告白は実に短く簡潔です。「私の主、私の神」、私たちも心からそう告白できるようものとして頂きたいと思います。主の恵みによってここから派遣されてゆく皆さんの信仰に歩みが、その告白のとおりに守られますよう、お祈りいたします。

20160410 エマオへの道 ルカ24:13~35

①二人の弟子はなぜエマオへと向かったのか。 イエスの復活の日の午後、二人の弟子がエルサレムからエマオへと向かっています。一人の名前は「クレオパ」と呼ばれていますが、彼はイエスについて、「この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。」と語ります。救い主として期待したイエスは、捕らえられ、裁かれ、十字架で殺され、すべてはイエスと共に墓に葬られたと言うことでしょうか。彼らはイエスを過去の人として墓に追いやり、イエス抜きの暮らしを目指してエルサレムから離れたのでした。

②どのように彼らは主の復活の信仰をもつことができたのか。 全てが終わったかのようにエルサレムを離れた二人の弟子に、イエスが近づきました。しかし、墓の中にしかイエスを見い出さない弟子たちの目は閉ざされ、彼らにはイエスが誰であるかが分かりません。このような弟子と主は共に道を歩いてくださったのです。聖書はイエスについて、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。・・・(ピリピ2:7.8)」と記しています。私たちの救いは神さまの側からスタートした出来事です。イエスが人となって私たちのところに来て下さり、私たちと共に歩んで、私たちを罪の奴隷から解放してくださったということは、救いが恵みであるという事実を示すものでしょう。

③イエスの復活がに目が開かれた時。 主イエスが二人に対して、聖書全体からご自身について解き明かし、夕食の席でイエスがパンを裂き彼らに渡されたとき、彼らはイエスに対して目が開かれました。直後にイエスは彼らには見えなくなりますが、彼らはイエスのことばに「心はうちに燃えていた」ことに気がつきます。信仰に生きる力は、イエスが目に見える居るか否かではなく、神のことばから来るものであることが分かります。この恵みに目が開かれた二人の弟子は、主の復活の証人として立ち上がり、今に逃げるように下って来たエマオへの道を折り返して、エルサレムへの道を主の復活を伝えるために戻ってゆきました。

④復活の証人して立ち上がる。 私たちの人生にも、二人の弟子のように、落胆と失望の道を歩む時があります。心が悲しみでいっぱいになり、傍にいるイエスが分からない時があるのです。しかし、そこでイエス・キリストは近くあって一緒に歩いて下さいます。そして、主は私たちをご自身の復活の証人として歩むよう導いておられるのです。自分の弱さや足りなさに信仰の迷いを感じることがあるでしょうか。しかし、私たちは共にいて下さる主の守りを受けて、これらに捕らわれることはないのです。ただ主の恵みに信頼して、主の復活の証人として歩ませていただきましょう。