20160320 イエスの死と葬り ルカ23:44~53

1)太陽は光を失い

金曜日の朝9時に十字架に架けられたイエスは、午後3時に息を引き取ります。この間12時から午後3時まで太陽は光を失い、また、他の福音書と合わせて見ると、イエスが息を引き取られたときに、神殿の幕が真二つに裂けたということが記されたいます。旧約聖書のアモス書8:9~10には「その日には、――神である主の御告げ。――わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたのすべての歌を哀歌に変え、すべての腰に荒布をまとわせ、すべての人の頭をそらせ、その日を、ひとり子を失ったときの喪のようにし、その終わりを苦い日のようにする。」という預言のことばがあります。

「さばき」ということがその現象の背後にみられます。神に背を向け、神などに頼らなくても十分に人生の幸いは獲得できる考える人間の反抗、その罪の裁きがイエスの上に置かれました。私たちの罪のためにイエスに向けられた神の御怒り、そして、死に至るまで神の御心に従い通されたイエスの従順とが、私たちに神との交わりの回復をもたらしました。

2)神殿の幕は真二つに裂けた

神殿には、聖所と至聖所という場所があり、この2つの箇所を分けるために「幕」が設けられていました。この幕によって遮られた至聖所には、年に一度、大祭司だけが、贖罪の奉げものをもって入ることが出来ました。このように、神と人とを隔てる幕は、罪人が神の御前に立つことができないとを象徴するものです。しかし、イエスが十字架で死なれた、その時に、その大きく厚い隔ての幕が「上から下まで真二つに裂けた」とマタイの福音書は記しています。神殿の幕は、私たちが神にふさわしくないものであることを象徴すものでした、しかし、イエスはぎ自身を通して罪の赦しの道を開かれ、神との隔てのない交わりを回復して下さったのです。ですからヘブル書の記者は、イエスを大祭司と呼び、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(4:16)」と勧めているのです。

3)イエスの葬り

十字架で処刑された者の葬りの方法は、ローマとユダヤでは異なりました、ローマの場合、処刑される者は十字架上で息を引き取るまで、長時間に亘って苦痛に晒され、死んでからも十字架から取り下ろされることは赦されずに、そのまま放置されました。一方、ユダヤの場合、死んで木に架けられた者は、神に呪われたものであり、これを翌日まで放置することは、神が与えてくださった地(場所)を汚すことであると申命記21:22~23に記されておりましたのので、その日の内に処刑された者を葬ろうとしました。

ここで登場するのがアリマタヤのヨセフという人物です。彼はイエスの内にキリストの姿と、神の国の到来を感じながらも、ユダヤ人の目を恐れて、隠れるようにイエスの周囲にいた人でした。実際、彼はユダヤ人の間で重んじられ、沢山の富を所有していましたので、イエスとの関わりが明らかになれば、このような地位も財産も失う事になる危険能性もあったのでしょう。しかし、十字架で死なれたイエスを仰ぎ見た時に、アリマタヤのヨセフは、もはやイエスへの信仰を人に見られることを避けようとはせず、いま自分に出来る精一杯のことを捧げたのです。

まとめ

主イエスの十字架を仰ぐ時に人は変わります。自分ではどうしようもないと諦めて、下ばかり向いて歩む時は終わるのです。目を上げてイエスの十字架を仰ぎ、あれこれ悩むのを止めて、ありのままの自分を、弱いままの自分を、イエスに委ねましょう。ヨセフは自分の人生の舵から手を離して、これを神に委ねました。聖書はその後の彼らの歩みを記してはいません。しかし、彼は変えられました。一粒の麦として十字架で死なれたイエスが、信仰をもってこの福音を受け入れる者の内に必ず信仰の実を結ばせること、それは確かな聖書の約束です。私たちも、神との交わりの中で多くの実を結ぶことを期待して、神の国を待ち望む者でありたいと思います。

 

20160313 三本の十字架 ルカ23:33~43

1)自分を救えない救い主

ローマ総督ポンテオ・ピラトの下で死刑の宣言を受け、鞭うたれ、自分が架けられる十字架のを負って刑場にイエスは歩まれますが、この間に、ユダヤ人の指導者、民衆、兵士からの罵声と嘲笑(あざけり)がイエスに浴びせられ続けました。人々は、「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」(35)とあざ笑い、兵士たちも「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」(37)と罵りました。イエスは人々から「自分を救えない救い主」と揶揄されたのです。

しかし、イエスは彼らの声に応えることはありません。「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(イザヤ53:5~6)。」という預言のとおり、神がイエスの上に備えられた十字架は、神に背を向けて歩み、その罪の現実にすら気がつかない人々の救いに向けられた贖いの十字架です。イエスの「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」というとりなしの祈りは、この事実を指し示すものと言えます。

2)二人の犯罪者

イエスが十字架につけられた時に、その右左にも同じように二人の犯罪者が十字架につけられました。一人の犯罪人は、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」とイエスを罵りましたが、反対側の犯罪人は、同じように十字架にかけられ死に定めながらも、彼とは全く異なる反応を見せます。彼はイエスを罵る者を「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。」とたしなめ、更に「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」と告白するのです。

彼は十字架で死に行くイエスの内に神を見い出し、恐れ、素直に自分の犯した罪を認めます。そして彼はイエスに「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と求めるのです。これに対するイエスの応えは「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」というものでした。

「パラダイス」というと言葉は新約聖書で3回使われている言葉ですが、黙示録2:7には「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」とあるように、「エデンの園」を思い起こさせる言葉です。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言い言葉は、この犯罪人の罪が赦され、人が罪を犯す以前の状態にあるように、何も隔てるもの無い、神との交わりに入れられたことの宣言と言えるでしょう。

3)救の条件

十字架の上でイエスに憐れみを求めた犯罪人は、神のため、人のために何も良い事をすることは出来ませんでした。しかし、彼が自分の罪を率直に認め、イエスに憐れみを請い求めた時に、彼は救いを得たのです。

聖書は「罪から来る報酬は死です(ロマ6:23)」と言います。どんなに偉大な人であっても死を避けることが出来ないように、人間は罪の問題に対して無力です。しかし、この罪を悔い改めて、神の憐れみにすがる時に人は救われるのです。

私たちは、自分の行いを誇ったり、人と自分を比べて卑下したり、人の行いを避難したり、それによって躓いたりしがちです。しかし、そうした事に心が向けられている時、私たちは本当に大切な、無くてはならない神の憐れみから心が離れてしまっているのかもしれません。聖霊なるキリストは、私たちの人生を共に歩んで何度でもこ信仰の原点である「神の憐れみ」に帰ることが出来るよう導いて下さいます。十字架の犯罪人が「私を思い出してください。」と素直にイエスの憐れみを請い求めたように、私たちも十字架のイエスを仰ぐものでありたいと思います。

ローマ人への手紙10:9~13

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あな たの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。  人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」  ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。   「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。

20160306 十字架の道 ルカ23:26~32

十字架への道 ルカ23:26~32

ローマ人の総督ピラトは、「イエスを十字架につけろ」と湧き上がる民衆を恐れて、彼らの要求を聞き入れ、イエスを鞭で打ってから兵士たちに引き渡します。兵士たちはイエスに、紫の衣を着せ、頭に茨の冠をかぶせ、葦を持たせ辱め、十字架につけられるためにピラトの官邸から連れ出してゆきます。今日はこのゴルゴダまでの道を福音書の記録から、ご一緒に見たいと思います。

1)ヴィア・ドロローサ 民衆と泣き女

ピラトの官邸からゴルゴダまでの道は、ラテン語で「ヴィア・ドロローサ」(苦難の道・悲しみの道)と呼ばれます。エルサレルの町は「過ぎ越の祭り」を祝うために神殿を訪れた人々であふれかえっていました。徹夜の裁きと鞭打ちによる痛みと衰弱のなかで、自分が付けられる十字架の木を負って刑場にイエスを、野次馬と化した群衆の嘲笑と罵声がカルバリへと追い立ててゆきます。こうした人々の中に、「イエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れがイエスのあとについて行った」ことをルカは記しています。この女性たちは、いわゆる「泣き女」と呼ばれる人々で、遺族に代わって悲しみや寂しさを表現することを働きとしていた人々です。彼女たちは、あわよくばイエスの遺族や関係者から謝礼を得ることを目論んでいたのかもしれません。

今まで沈黙を守っておられたイエスは、女たちに「自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。」と語られました。それは「子どもがいない方がよかった」と思えるほどの苦難の日が訪れようとしているという警告です。その1つの現実として、ユダヤ人は40年後にローマとユダヤの間に戦争を経験します。エルサレムは陥落し神殿は破壊し、この戦いの中で大勢の乳呑児、子供が疫病や飢えによって死んでゆきました。

しかし、イエスの警告は単にユダヤの戦争だけを指すものではありません。「彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」とイエスは言われます。「生木」とはイエスを指すものであり、「枯れ木」とはイエスを十字架につける罪人たちを指します。「罪のない神の子が十字架で殺されるならば、罪人であるあなたたちには、どんな苦しみが待っているであろう」ということでしょう。罪に対する神の審判を、悲しみの道の傍ら立つ人々に罪の審きを問いかけ、カルバリに向かうご自身の救い主としての姿を、イエスは示しておられるのです。

2)ヴィア・ドロローサ クレネ人シモン

この悲しみの道でイエスと出会った人について忘れてはならないのが、クレネ人シモンです。力尽き弱り果てたイエスは十字架(横木・40~50kg)を担うことが出来ませんでした。そこで兵士はシモンを捕まえて代わりに十字架を運ばせたのです。クレネとは現在の北アフリカ・リビアの東側の地中海に面した町であり交易によって大変栄え、ユダヤ人もたくさん住んでいたようです。

シモンように遠方に暮らす者にとってエルサレムへの巡礼は、信仰的な悲願といえることでした。ところが、念願かなってエルサレムに到着したシモンは、これから十字架にかけられる一人の男の十字架を無理やりに負わせられるのです。彼には何の落ち度もありません。たまたまそこに居合わせたというだけの理由です。貧乏クジを引いたような経験、「自分がなぜこんな目に合うのか、神さまなぜですか」と呟くような経験って誰にでもあるのではないでしょうか。

しかし、この経験によってシモンの人生は大きく舵を切ることになります。マルコの福音書は同じ場面を、「アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。(15:21)」と記しています。特段の解説もなく、シモンについて、「アレキサンデルとルポスとの父」と紹介していることは、読み手が「アレキサンデルとルポス」と聞けば直ぐに誰だか分かったということでしょう。二人は教会とクリスチャンの間で知られる人物であったのです。使徒の働きの13章1節には、アンテオケ教会の預言者と教師が紹介されていますが、そこにニゲルと呼ばれるシメオンと言う人物が紹介されています。ニゲルとは「肌の黒い人」と言う意味ですが、このシメオンは、クレネ人シモンと同一人物と推測されます。また、パウロはローマ人への手紙の中で「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。(16:13)」と述べていますが、この「主にあって選ばれた人ルポス」はマルコ15:21で紹介されたシモンの子です。また、ルポスの母(シモンの妻)についてパウロは、「彼と私との母によろしく」と呼び、シモンの妻とパウロの間には親子のような親しい交わりがあったことを示しています。

クレネ人シモンは、強いられてイエスの十字架を負わされ、イエスの後をついてゴルゴダまで歩きました。十字架の下でイエスを仰いだシモンの救いを、聖書は記録には残してはいませんが、無理やり背負わされた十字架が、シモンを救い、彼の家族の救いにつながったことは確かなことといえるでしょう。

4)私たちの十字架

イエスは「だれでもわたしについて来たいと思うなら、 自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(ルカ9:23)」とご自身に従うことを望む者に「十字架を負う」ことを求められます。十字架はユダヤ人にとっては神の呪いを象徴するものですが 、クリスチャンにとっては、罪の赦しのために神がはらわれた「犠牲」を象徴するものです。犠牲は自分以外の誰かのためになされるものであり、自分には何の益もありません。そんな犠牲など負いたくはないと思うのは誰にとっても自然なことでしょう。しかし、イエスはご自身に従うことを願い者に、強いて十字架を負うことを求めておられます。私たちがキリストの似姿に変えられ、神の栄光を表わし歩むために、主は私たちが負うべき十字架を用意しておられるのです。全てのクリスチャンは負うべき十字架があると言えるでしょう。あなたにが主に従う時に主が備えておられる十字架は何でしょうか。強いられた十字架の背後に隠された恵みを知り、ただ主を信頼して、シモンのように主の後ろに従う者となることが出来るよう祈りましょう。