20150705 義人は信仰によって生きる ヘブル10:32~39

「義人は信仰によって生きる」という聖書の言葉は大変有名な言葉です。新約聖書の中でヘブル書を含めて三回引用されており、元となる聖句は旧約聖書ハバクク2:4にあります。
ハバククとは紀元前7世紀に南ユダ王国で用いられた預言者です。南ユダに暮らす人々の間にある暴虐と争いについて預言者ハバククは、主がこれに対して何もしておられないと祈り訴えました。この祈りに対して主は、「カルデア人を立て、ユダにさばきを行なう。」と答えるのです。ハバククは驚きました。「バビロンの悪はユダの悪よりも大きい。なぜ、そのような者たちによって、ユダは裁かれなければならないか」。ハバククは主の御旨が分からずに、主の答えを待ちつづけます。そこで語られたのか「見よ。彼らの心はうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる」というものであったのです。それは、主に信頼して生きる人を神は正しい人(義人)と認める、という事でしょう。

使徒パウロはこの聖句をローマ書とガラテヤ書の中で引用しています。そしてへブル人への手紙の著者もこの「義人は信仰によって生きる」という聖句を引用して読む者を励ましていますが、その背景にはキリスト者と教会に対するローマ帝国の迫害がありました。
ローマ帝国によるキリスト者と教会に対する迫害と言えば、第5代皇帝ネロによる迫害が有名です。紀元64年にローマで起きた大火事が発生しますが、民衆の間に「皇帝がローマの町を新設するために放火した」という噂が立ちます。真偽は定かではないのですが、これを恐れた皇帝ネロは、キリスト教徒を放火犯にしあげて大迫害を行い、多くのキリスト者がこの中で殉教をしてゆきました。
ヘブル人への手紙12:4には「あなたがたは、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」とありませので、ヘブル人への手紙はネロの迫害以前のものであろうと見られますが、いずれにしても、この時代に信仰を告白してキリスト者として生きることを決心するという事は、私たち思う以上に大きな決心であったのではないかと思います。

このような中に語られた「義人は信仰によって生きる」ということばから、私たちはキリスト教信仰と信者の生活とはどのようなものなのかを、もう一度考えて見る必要があるように思います。

この手紙が宛てられた教会とキリスト者の生活は、32節の「あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。」ということばから読みとることができます。「光に照らされて後」とは、イエスを救い主と信じて後という意味です。彼らにとってキリスト者としての生活の始まりは、イコール、ローマ社会からの迫害の始まりでありました。
しかし、かれらはキリストを信じた喜びの故に、これらの試練に耐え、同時に迫害の中にある兄弟姉妹を支える者となっていたのです。

キリスト教会の歴史を遡ってみると、教会が一番成長したのは、イエス・キリストに始まり、教会が迫害された300年間であったといわれます。
ワシントン州立大学の社会学教授のロドニイ・スタークは「初代教会はどうして高度成長をしたか」という研究論文を発表しましたが、これによると、 ローマ皇帝コンスタンティヌス1世がミラノ寛容令を発しキリスト教を公認した紀元313年ころの、ローマのクリスチャン人口の比率は人口の約56%程の上ってといわれます。使徒の働きの1章を見ると、キリストから約束を受け、エルサレムに留まった弟子たちの数は120人ほどであったとあります。約300年後には3400万人が教会に属していたと見られます。

日に日に迫害の風が強まる中で、初めの教会に連なるキリスト者に宛てられた手紙において、彼らが信仰の確信を握りしめ、そこに堅く立って歩むために伝えられたことばは「義人は信仰によって生きる」ということであったのです。
わたしは聖書箇所を読みながら、「生きる」ということばは、とても前向きで積極的なイメージを感じました。私たちの信仰は神からの賜物であり恵です。正確に結えば「神の恵みに生かされている」というのが人間であり、私たちキリスト者の姿です。しかし、この恵みに与った者が、その恵みの素晴らしさを覚え、感謝と共にその生涯「信仰に生きる」という決心というか、確信のような、非常に強い意志を感じるような気がします。

生きるとは、私たちの現実であり実生活です。そこにはいろいろな事が起こってきます。問題や課題に囚われて、思い煩いの虜のようになってしまう事もあるでしょう。それが「生きる」ということの実態です。きれい事では済まされません。「生きる」ということに於いては信者も未信者も、何も変わりがありません。せすから「信仰ではお腹はふくれない」などという人もいるのです。しかし、私たちはそのような現実世界に身ををおいて、そこで「信仰」という事を生きる土台に据えることを決心するのです。
先のことは誰にも分かりません。思いもよらない試練や困難が待ち受けているかもしれません。しかし、わたしはたとえどんな大きな試練が待ち受けていようとも、信仰に生きる、主を信頼して生きることができる、そんな信仰をもって歩みたいと思います。
先ほどローマ皇帝ネロの迫害についてふれましたが。使徒パウロはこの迫害の中で殉教したと言われます。このネロの迫害を背景に、つくられた歴史小説に「クォ・ヴァディス(ヨハネ13:36)」というものがあります。映画にもなりましたので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。(ポーランド人・ ヘンリク・シェンキェヴィチ1896)
その中にペテロの殉教の場面があります。
ローマ帝国のキリスト教徒への迫害が日を追うごとに激しくなり、これを恐れた者たちが国外へ逃げのびる事も珍しくはなかった情況のもとで、ペトロは最後までローマにとどまるつもりでありました。しかし、ペテロの身を案じる兄弟姉妹に促された、ペテロは渋々ながらローマを離れるのに同意します。夜中に出発して街道を歩いていたペトロは、夜明けの光の中に、こちらに来るイエス・キリストの姿を見るのです。ペトロは驚き、ひざまずき、イエスに尋ねました。
「主よ、どこに行かれるのですか/Quo vadis, Domine? 」
イエスはペテロに応えて言われます。
「あなたが、わたしの民を見捨てるならば、わたしはローマに行き、今一度十字架にからなければならない。」
ペトロはしばらく気を失っていたが、起き上がると迷うことなく元来た道を引き返し、そしてローマで捕らえられ、十字架にかけられて殉教したのである。

信仰によって生きる、それは、世にあって、あえて苦難の道を選ぶ選択かもしれません。それは、キリストの足跡をたどることです。しかし、「約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(36)とあります。そして、そのようにして信仰に生きる者を神は義人と呼ばれ、彼らは「恐れ退いて滅びるものではなく、信じていのちを保つ者です。」(39)と言われているのです。
私たちも「信仰に生きる」ことを決心し、そのような者を主は義人と認め祝福して下さるという確信を握りし、歩む者でありたいと思います。